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言葉の建造物。

今日、ひさしぶりに会う友だちの家に行った。たぶん二年くらいぶり。

友だちと奥さんと僕と。思いがけず会話がはずんで、長居することになった。

その友だちに前に会ったのは、僕たち夫婦が別居する前だったので会話の冒頭に「なにがあったの?」と尋ねられた。

話せないことは何もないはずなのだけれど、込み入りすぎている気がして「いろいろあって」としか答えられなかった。

それから僕らは、いろんな話をした。いま働いている障がい者施設のことだとか、ウィルスのことだとか、母と娘の関係のことだとか。

そうやっていろいろと話しているうちに、ふっと別居のいきさつに話が戻った。

今度はスムーズに話すことができた。「それまでに話したこと」が土台になって、最初に聞かれたときにはうまく言えなかったことが言えるようになっていた。

僕も奥さんもなにも隠す気はなかった。それでも一番はじめには最後に話したようには話せなかった。

それで気づいたのだけれど、人と人は会話をしながら、その真ん中に言葉の建造物のようなものを建てているのかもしれない。

一言一言、ひとつひとつの話が僕たちの間に積み上げられていって、次に語られることは出来た建造物の影響を大きく受ける。「さっき話したあの話」が思いもよらぬところで次の話につながったりする。

それは最初から意図も計画もできないアートだ。誰が何を話すかなんて誰にもコントロールできないから。

そして、その意外性が面白い。

今日おしゃべりしたことはそんな意外性に満ちていた。僕にとっても、奥さんにとっても、次の進路を照らすヒントが与えられたけれど、そんなことを期待して会いに行ったわけじゃないし、むしろ何の期待もしていなかった。

人生は不思議なもので、こんなふうに全く油断しているところにきっかけを登場させたりする。僕らにできることは、その予想もつかない建造物を隅々まで歩きまわり、楽しむことだけなのかもしれない。

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