文脈に愛_

行間に「愛」

昨日、勤め先の児童館で職員向けの研修が行われた。

タイトルは『「国連・子どもの権利条約を読む学習会」のシェア会』。

堅そうである。
勤務扱いだったことと、主催しているのが同僚でなければ、確実に参加しなかったと思う。

でも、ふたを開けてみたら、ものすごくよかった。
そのギャップについて話してみたくて、この文章を書いている。

会が開かれる前の日、僕は同僚に「ごめんけど、権利条約には興味がないんだ」と伝えた。

いちいち言わなくてもいいことかもしれないが、なんというか、僕はややこしいほど正直で、つまらないときにははっきりとつまらないと態度に出てしまう。でも、同僚が頑張って準備しているのは知っているし、できれば良好な関係でいたい。

そのとき、僕は「権利条約を語る人」にこんな先入観をもっていた。

「子どもの権利条約って大事なんですよ!」とその人は啓蒙してくる。
「そうか」と聞いているうちに興奮してきて、質問や確認をしようとすると「なに言ってんの」くらいに冷笑するか憤慨して、僕の口をふさごうとする。

話し合いの余地がない。「正しさ」を盾にして、いつまで経っても本人の姿が見えてこない。

子どもの権利が大事なのは分かる。
分かるけど、押し付けられると反発したくなる。

幸いだったのは、同僚にもそういう感じへの抵抗があったこと。
彼女は、僕の懸念に理解を示した上で「ケンカするとなったらしましょう」と言ってくれた。

そのケンカは「本当に大事なところに差し掛かったらケンカも辞さない」という意味で「なにがあっても私は私としています」と約束してくれたように感じた。だから、そう言ってもらえて安心した。

とはいえ、当日はやっぱり「暴れないかなあ」と自分にドキドキしつつ、席についた。

この日は同僚と、共同主催のもう一人の女性の語りからはじまった。
「権利条約を自分の言葉で語りたい」と同僚は言い、もう一人は「行間に愛がある」と言った。

全体的に情熱に満ちていて居心地がよかったけれど、中でも面白かったのは「条文を読み解く」時間。

特に、子どもが自由に意見(view)を表明する権利について書かれた12条の解説がよかった。

子どもの権利条約 第12条第2項の原文(英文)は、こうなっている。
(ややこしいので「長くて面倒だな」という感じが伝わったら、先に進んでもらいたい)。

For this purpose, the child shall in particular be provided the opportunity to be heard in any judicial and administrative proceeding affecting the child, either directly, or through a representative or an appropriate body, in a manner consistent with the procedural rules of national law.

この場を進行していたのは、同僚とコンビを組んでいたもう一人の女性。
彼女は、この英文の太字の部分について語り始めた。

either directly, or through a representative or an appropriate body

子どもは自分の意見を「直接、または代理人や適当な団体によって」聞いてもらうことができる、という意味の箇所。

太字にした最初の「or」に、彼女は萌えていた。

この「or」を抜くとこうなる。

either directly, through a representative or an appropriate body

これだと、子どもの意見を聞く方法は「直接」「代理人」「団体」のどれかでいい、という意味合いになる。

これが

either directly, or through a representative or an appropriate body

になると「直接」聞くことがまずあって、それ以外に「代理人」「団体」というのもあるよね、くらいの意味になるらしい。

この、たった一つの「or」のもつ意味に、彼女は萌えていた。

しゃべっていた彼女も「伝わるかな」という感じだったけれど、いま書きながら僕も同じ気持ちでいる。

でも、十人中九人がスルーするかもしれないそれを、あえて書き続けたい。

僕には、彼女の萌えが伝わってきた。

「行間に愛がある」

と最初のあいさつで語っていたのを聞いていたからだ。

彼女の語りを聞きながら、僕の頭にはこんなストーリーが浮かんだ。

この条文、最初は「or」なしの文章だったんだと思う。

そこにある国の代表が「この位置に or が入るのではないか」と意見を言った。「子どもから直接聞くことがなんたって大事だと思うから」という理由も添えて。

条約について検討していた人たちはその主張に耳を傾け「確かにそうだね」と認めた。そうして何十年も時を経て、いま僕たちの手元にある原文に「or」が残っている。

そう思うと、最初に条文を見た時には感じられなかった、当時の人たちのぬくもりに触れられた気がした。

主催の二人がしていた「権利条約を読む」は、権利の正しさの啓蒙ではなかった。

そうではなく、ピアニストが楽譜からベートーヴェンやモーツァルトを読み取ろうとするように、条約の行間にじっと耳を澄ませ、その会議に出席していた世界中の国々の人の思いや良心をよみがえらせようとしていた。

そして、二人の問題意識や「愛」と共鳴したものを分かち合おうとしてくれていたのだ。

子どもの権利条約 第5条にはこんな文がある。

States parties shall respect the responsibilitys, rights and duties of parents… (以下略)

ここだけ訳すと「締約国は、親の責任、権利、義務を尊重する」となるこの文章、「行間に愛」と言った彼女は、この「respect」にも萌えていた。

「子どもが大人に守られるように、大人たちもまたこの条約に守られている感じがするの」

と彼女は言った。

いいなあと思った。つくづく「愛」だなあと。

もちろん、実際に条文ができるまでのプロセスには、各国の生臭い議論があったのだと思う。政治的なやりとりもあったかもしれない。行間にその匂いを読み取ることもできる。

それでも僕はなんたって「愛」を読み取ったこの人の読みが素敵だなあと思ったし、知り合えてよかったと思った。

そして、その「愛」の読み方が、子育て支援の拠点なり児童館なりの現場に戻ったときに、行動の背景に根付くように思えた。

二人は啓蒙しなかったけれど、僕はすっかり啓蒙された。

会が終わった後、いい感じでくたびれていた同僚に「いい仕事だったよ!」と声をかけた。

そう言って差し出した僕の手のひらを、彼女は

パアン!

と『スラムダンク』みたいに思いっきり叩いた。


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