いい人ばかりじゃいられない。
「ご指導ありがとうございました。」
と言われてはじめて、自分が指導していたのだと気がついた。
おとといのことだ。
僕は、同僚の仕事にダメ出しをし、その姿勢を叱った。
そんなことをしたのは、人生ではじめてだった。
そもそも、僕はダメ出しがきらいだ。
仕事柄、心ないダメ出しによって、歌や人がどれほど萎縮してしまうかを知っていたし、そのせいで、好きだったことをやらなくなる人をたくさん見てきたから。
にもかかわらず、その日、僕はダメ出しをした。迷いはなかったと思う。
同僚は、その仕事に全力以上のエネルギーを注いでいた。
そのがんばりも見ていたし、やり遂げたい気持ちも伝わってきた。
でも同時に「大丈夫です」「楽しい」と言いながら、体や表情はどんどん疲弊し、そのことを周りのメンバーが心配しはじめていた。
そうして、締め切りになってできあがった成果物は「よくできたね」と言ってあげるには、足りないところが多すぎた。
「これでは無理だと思う」
と、僕は言った。
同僚は、持ち前のガッツで「もう一度直したい」と言ったが、それも否定した。ここで通したら、結局上長が同じことを言う羽目になると思った。
「迷惑をかけたくないから、自分でやりたい」という同僚を「そうすることでかかっている迷惑が見えていない」と叱った。
言ってみて、分かったことがある。
それは、同僚のがんばりに共感して成果物に妥協することも、体調がすぐれないことを理由にして仕事をストップさせることも、自分が「いい人」として見られたい以外のなにものでもない、ということだった。
「できていないものは、できていない」
僕には、それがはっきり見えていたのだから。
僕はつねづね、人の抱える葛藤の一つ一つに理解を示そうとしたり、相手がどう感じるか想像して、かける言葉や関わり方を躊躇したりしてきた。それが「やさしいこと」なんだと思っていた。
でも、それは違うのかもしれない。
葛藤に付き合うのは、基本的に自分が相手にとって「いい人」でいつづけるためのポーズにすぎないのではないか。
そうして「いい人」のまま、相手に思っていることを言わず、安全圏にとどまり続けることは、良好な関係を築いているのではなく、相手との関係を膠着させているのではないか。
その安全圏を越えて「いい人」とは言いがたいところで関わろうとすることが、本当の意味で「やさしいこと」なのではないか。
昨日、鍋をつつきながら、奥さんにこの話をした。
強いことを言ってはいるが、僕は不安だった。
同僚は、昨日から体調を崩して仕事を休んでいた。
僕のせいかな、と思う。怖くないわけはない。
それでも、自分が曲がったことをしたとは思えなかった。
安全圏の主である「いい人で思慮深い」自分は、
ーーなんであんなことを言ったんだ。かわいそうじゃないか。
と非難の声を浴びせていた。
僕は間違っていたのだろうか、という考えもよぎった。
奥さんはそんな僕を珍しがりながら、話をうんうんと聞いてくれて、それから「難しいね」と言った。
不安がなくなるわけではなかったけれど、聞いてもらえてホッとした。
僕はずっと、誉めるだけで世の中がまわっていけばいいと思っていた。
怒ること、叱ることなんてなくなればいいと思っていた。
でも、どうなんだろう。
以前、父親に「仕事は自分が楽しければいいんだ」と言って、激怒されたことがある。
怖かったし、なんでこんなに怒られなきゃいけないんだと思ったけれど、いま、その気持ちに少し近づいた気がする。
父も僕を叱ったあと、こんなふうに「よかったんだろうか」と寒空の下で凍えるような気持ちになったんだろうか。
そんなことを思いながら、そして、同僚が早く元気になって来てくれるといいなと思いながら、この記事を書いている。
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