身内

人はいつから「身内」になるのだろう。 (メルマガ『生きているQ』より)

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こんばんは。澤です。

聴いていただき、
ありがとうございます。

昨日、ほぼ日刊イトイ新聞の 
トップページにある
「今日のダーリン」というコラムに

「足の小指の先を
 テーブルの角にぶつけた」

というたとえに続いて
こんなことが書かれていました。

痛む足の小指を、
人の身体のあらゆる部分が応援します。

(略)

気持ちが元気で、身体の調子もいいときだと、
おそらく足の小指の先の痛みも、わりと簡単に消えて、
すぐに走り出したりもできそうですが、
身も心も疲れているときだと、なかなか回復もせず、
連鎖的に不調の波が押し寄せてきそうです。

これ、昔からぼくのイメージしている
「組織人体論」の一部分なんですよね。

小さなほころびや傷に思えることでも、
それにつながっているあらゆる部分(みんな)に、
継続的な負担を強いることになる、だとか。
足の小指の痛みが
心を挫くようなことになっている場合、それは、
チーム全体に疲労が溜まっている、だとか。
けっこう、いろんなことが想像しやすいんです。   

チームのメンバーが
ひとつの人体のようにつながって、
足の小指のような部分的な痛みでも
全体に影響を与える。

これを読んで思ったのが
「夫婦もそうだな」ということです。

うちは別居しているのですが、
離れて暮らしていても
奥さんが不調だと
どうもこっちの調子も芳しくない。

それどころか、
決まっていた仕事の予定さえ
流れたりする(笑)。

偶然というには、あまりにも
同調・連動しているように
思えることが多く、
不思議に思っています。

ぼく自身が
「感じて」「きく」仕事を
するようになって
敏感になったのか、

はたまた、
夫婦として生活していることが
(別居していてさえ)
お互いの細胞の組成かなにかを
近づけていったのか。

親子や兄妹なら
まだわかるのですが、
夫婦は、元他人です。

それなのにいまや
親兄妹以上に
共鳴し合う存在に
なっている気がする。

これってなんなんだろう。

他人同士だったぼくらは
いつから「身内」になったんだろう。

もしかしたら、
人は誰しもがつながっていて、

ぼくと奥さんは
たくさんの時間をすごして
確かめられるから
そのことをはっきり
自覚できるのかもしれませんが、

それにしても、不思議です。

そして、このことを思うと
「元気であること」や
「ごきげんに過ごすこと」が
自分のみならず、
周りに対しても貢献になる
という話が、
ただの精神論ではないとわかります。

人ってほんとに
一人で生きてるわけじゃない

その証拠の
すぐそばにいるような気がして、
なんだか妙にこのことが
気になっているんです。

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