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仕事と真心。

近所のスーパーでレジ袋が有料になった。
取ってつけたような「地球環境のために」なんてアナウンスとともに。

なにをいけしゃあしゃあと、と思う。そんならどうして今まで無料で配ってたんだとつっこまずにはいられない。細かいことだがどうにも気になる。

会社はいつからこんなあからさまなウソをつくようになったのだろう。客がそれに騙されるとでも思っているのだろうか。彼らが大事にしているという「お客様」も馬鹿じゃないから、そんなことにいちいち反応せずに聞き流している。白々しい関係の中で仕事が行われている。

いつから職場は人から「真心」を失わせる場になったのだろう、と考えていたら、ちょうど読んでいた若松英輔さんの『生きる哲学』にこんな文章があった。

 母は真心の人だったと芳子は言う。『料理歳時記』の終わり近くで浜子はこう記している。「本物の味、真心が作り出す味、この味こそすべてに求めたい」。美味しいと感じられるものが生まれるまでには、どうしても真心という見えない働きを欠くことができないというのである。
 事実、浜子は真心がないことに黙ってはいられない人物だった。ある日、芳子は掃除の仕方に関して母に「真心のこめ方を知らない」と指摘される。真心がないのではなく、込め方を知らないと指摘されたので救われたが、悄然とする気持ちはどうしようもなかったと書いている。だが、この出来事は芳子が真心とは何かを考える重要なきっかけになる。
 真心に遭遇したとき、喜びをかみ殺すようなことをしてはならない。真心で自分の心が動いたときはその歓喜をしっかりと声に出さなくてはならないと辰巳は言う。(P.231)
 人間、仕事をして良きにつけ悪しきにつけ、”認められぬ”ほど疲れが抜けぬことはない。それは不思議なうっ積となって人の中に残る。人の労苦を受ける側は、どうしても認める動力を怠ってはならないと思う。

 このとき、認めるとは、真心の行いであり、情愛の萌芽である。相手の好意に意味を認めるということはすでに「いのち」にふれることになる。「いのち」にふれられた者は、自分のなかにけっして朽ちることのない何かがあることを知る。これが「食べる」ことの秘儀なのだろう。美味しい、と口に出すとき、人は、今まさに自分を生かし、また、永遠に滅びることのない「いのち」をまざまざと経験している。(P,232)

「芳子」とは、料理研究家の辰巳芳子さんのことだ。
ここでは、仕事は「真心」を込めてなされ、また「真心」を込めて認められるものになっている。そこにいる人と人とは「いのち」を支え合っているような関係にみえる。

「魂を売る」という言葉があるが、多くの仕事は人から「いのち」を削り取っているように思われる。職場に行き、指示通りに動き、げっそりとして家に戻って我に返る、ことができたら幸運な方で、そのまま我を忘れたまま、長時間スマホの画面を見ていたりすることだってあるだろう。

本当に為される仕事において、送り手と受け手はともに「いのち」を支えている。そこに優劣はない。「様」なんてつけてへり下るものでもなく、数字に置き換えて支配するものでもない。そこにあるのは、互いに「真心」を炸裂させている「いのち」の火花だけだ。

そういう仕事を交わしていきたい、と思う時に、いまの「仕事観」がどうにも邪魔になることがある。その向こうにいきたいと思うのに、うまく言葉にならない。そんなもどかしさを抱えながら、仕事をつくっている。

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