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妖精たちのいるところ。

数日前にこんな記事を書いた。

世界を「自然」と「社会」に分けたならば、自閉症者は「自然」の中でどう生きていくかに思いを巡らせ、そうでない人は「社会」での利害調整に思いを巡らす。

でも「自然」と「社会」の配分は 100:0 と 0:100 だけでなく、自閉症でなくても社会での利害調整より自然界の中での生き方に意識が向く人がいるよな(僕もどうやらそのタイプらしい)、という記事だった。

昨日、大阪の石切でも似たような話をした。
ある種の人たちは、自閉症者、障がい者と名前はついていなくとも、社会での利害調整が苦手で、まわりと同じようにできない。その代わり、そういうことができる人たちには感じられないことが感じられたり、できないことができたりする。彼らは自然と社会のあいだの「グレーゾーン」とでも呼ぶべきところにいて、多くの葛藤を抱えている。

仮にそういう人たちのことを「妖精」と名付けると、ほとんどの妖精たちは社会に適応しようと懸命に努力している。勉強に励んだり、本を読んだり、自分なりに努力したりして、社会に適応できる「社会人」としてのスキルを身につけようとする。

でもできない。そうして露見するミスを指摘され、怒られ、落ちこぼれていく。

けれども別の角度からみると、彼らの落ちこぼれは、彼らが「自然」に属する妖精であることを示す。同時にそれは、社会の側に妖精たちを許容するキャパシティがないこと、言い換えれば「障がい」が存在することを意味する。障がい者と呼ばれる人たちだけでなく、妖精たちにとってもこの社会は「障がい」に満ちている。

見た目には健常に見えるから、妖精たちはその障がいを自力で克服しようと努力する。しかし、それは自らの姿を力ずくで「社会人」の型にはまるよう強いることになる。うまくいかなければ「理想」を掲げたりして強制力を強める。そうしないと生きていけないと思うからだ。

たい焼きならば、液体を流し込めば型通りにできるけれど、僕らはたい焼きではないからどうしてもはみ出てしまう。そして、たい焼きも妖精も、そのはみ出た部分がおいしいところ(時にそれは才能と呼ばれる)だったりする。出る杭は打たれるが、杭を引っ込めてしまうと才能も消える。

では、妖精たちはどう生きていったらいいのか。
昨日はそのことを話していた。

僕が思うに「自然」と「社会」の配分が、42:58 とか 35:65 とそれぞれ違うことがヒントになるのではないかと思う。「社会」が得意な人はそっちをやって「自然」が得意な人はそっちをやる、というような協力関係が成り立つなら、お互いの良さを相補的にいかしていくことができるのではないか。

協力のいいところは一人にならないことだ。
障がい者と違って妖精たちは一人でなんでもできる気がしてしまう。でもそれは彼らの孤独を深めることになりやすい。「しにたい」という気持ちになるのは、人が一人ぼっちのときだけらしいけれど、一人になればなるほど先に述べた型にはめて自分をころそうとする力も強くなるのだと思う。

もちろん面倒はある。妖精同士の協力は、社会に適応できる人たちとちがって共通項が少ないから、意思疎通に時間がかかることも多かろう。イライラさせられることも増えるかもしれない。

でも、それを補って余りある実りがあると僕は思う。
妖精同士が協力しようとしてする対話は、お互いの姿を明らかにすると思うし、そこで言いよどんだり、苦しんだりしたことは「ともにいきていく」ための筋力を高めるように思うからだ。

少ない語彙で定形の言葉を高速でやりとりしているとコミュニケーションがうまくいっていると誤解している子が多いけれど、本当にコミュニケーションがうまくいっているのは、「言いよどむ、言葉に詰まる、前言撤回する」そういう状態をまわりがやさしく見守っている状態。

「言葉が育つのはデリケートなことで、想像力と愛情と忍耐が必要なんです」

と武道家で思想家の内田樹さんは言っているけれど、重なり合うところが比較的少ない妖精同士が苦しみ、淀むことは語彙だけでなく想像力と愛情と忍耐を育てることになると思う。

以上は、僕が奥さんという妖精と暮らしてきた上での仮説のようなものだ。

あ、そうそう。奥さんとの生活でいうとユーモアもとても大切。
想像を絶する他者といる場合、思い通りにならないことが多い。それにイライラするか笑いに換えられるかの違いって大きいと思うから。

ともに「言いよどむ、言葉に詰まる、前言撤回する」をしながら歩む道は、コンピューターのようにサクサクとは進まない。でもだからこそ言葉が育ち、ユーモアが育ち、人間が温厚になるような気がする。

そして、物事を本当に突破する時に現れるものが善悪とか正誤といった判断ではなく「アート」であることにも気付きやすくなる。

たとえば、お笑い芸人さんたちの共同体はすでにそれを体現しているような気がする。社会との接点で凄まじい摩擦や軋轢の中にいながら、なおも「笑い」を作ろうとする人たちの姿は、妖精たちの生き方の一つのサンプルになろう。

それにここまで書いてきて思ったのだけれど、妖精ってそんなに希少なのだろうか。この社会を生きる上で「障がい」を感じていない人がいったいどれほどいるだろう。

そして、妖精たちが「社会人」にならないと生きていけないと思うほど、脅かされているのはなぜなのか。

まだわからないことがいくつもある。
でも「ともにいきていく」ことを可能にするすべを探すことが、その答えになるような気がしている。

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