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顔がみえる食卓。

ここ、那珂川市南畑に移住して数日後、僕はこんな事を書いた。

そして三ヶ月経ったいま、我が家の食卓には「顔がみえる食材」ばかりが並んでいる。

○○さんからいただいたキムチ、△△さんちのお米、□□さんのところで採れた白菜、などなど。奥さんが歩くと、食材がひっきりなしにやってくる。犬も歩けば棒に当たるが、うちの奥さんは歩くと食材に当たる。

まだ名古屋にいた七月には、こんなことを書いていた。

都会を離れたところでは、食べものを贈ったり贈られたりするコミュニケーションがある。そのことは知っていた。でも友だちはみな都会に住む人ばかりだったので、実際そうしてもらったことはなかった。

で、いざそうしてもらうと「生きていけるかも」という安心感がすごいことに気づいた。食べものが送られてくると「食うに困らない」という深い安心感が湧くのだ。

そんなふうに食べものを贈ったり贈られたりする地域とそうでない地域では、生きることに対する安心感が違ってくることが想像できた。

生きることへの安心感があると、人は悩みにくくなる。もちろん日々難儀なことはあろうが、不安に駆られているのといないのとでは視野の広さも思考の深さも違ってくる。

(略)

自然がいっぱいあって、食べものを送ったり送られたりする。そんな場所を僕らは「田舎」と呼ぶが、それは「ふるさと」という意味かもしれない。

少なくとも、都会そだちの僕ら夫婦が四万十の野菜に感じたそれは、スーパーで買うのとはまるで違う「ふるさと」みたいな安心感だった。

このときはまだ食べ物を贈られることは「とても珍しいこと」だった。
それがいまは日常になっている。今日などはもらいすぎて断ったそうだ。

この地域には「食べ物を贈ること」を当然のようにしている人が多数いる。だから、道を歩くとなにかいただいてしまう。あげて、あげて、もらって、もらって、そうして貨幣以外のものがぐるぐると循環している。

実際、こちらに来てから所得の水準は変わっていないにも関わらず「生きていけないかも」という不安は激減した。もともと薄かった僕だけでなく、奥さんもそうだというのだから、これは土地の力というものだろう。

そして、顔がみえる食材はおいしい。○○さん、△△さん、□□さんもいっしょにいただいている感じがする。無料なのに。

買ったものの方が貧しくて、もらえるものの方が豊か。
そんな経験をしているものだから、なにが貧しくなにが富めることなのかが分からなくなりつつある。

決して強い産業があるように見えない南畑だが、ここに住む人たちはお金にも時間にもゆとりがあるように思える。といっても余らせて暇を持て余しているわけではなく、忙しく働き、惜しみなく使い、いきいきとしているのだけれど。

移住して三ヶ月経ったが、カルチャーショックはまだまだ続いている。
この謎が解けることがあるのかどうかは分からないが、とにかく幸運な経験をしていることは確かだ。

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