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時にはぶっ飛んだ話を。

久しぶりにオンライン読書会『西田幾多郎の「善の研究」を読む』に参加できた。

主催はトミーさんこと中冨正好さん。彼の元に毎回、わざわざ西田幾多郎なんていう難解な本を読もうという物好きが集まる。

はじめて参加した時、僕はこんな記事を書いた。

「ここは思いが強すぎて漏れちゃった」「ここも飛躍してスピード感が出てる!」など勝手な解釈をし合うのも楽しかった。天国の幾多郎が聞いたら「違うわ」と思うかもしれないが、こんなふうに面白がって読んでいるのを見たら、苦笑しつつ許してくれるだろう。

「読む」ということは、誰もが当たり前のように行っている。
でも、やり方を変えて、他の人もまじえて行うことで、こんなにも豊かになる。

なんだか栄養価の高い食事を摂ったような満足感があって「こりゃすげえや」と感じた。

こんなことを書いておきながら、不思議なことにその後、この会にはなかなか参加できなかった。予定が入ったり、奥さんとなにかトラブルが起きたりして。

昨日も開始時間になって奥さんと話し込むことになり「これは本当に縁がないのかな」と思ったけれど、なんとか最後の三十分に潜り込んだ。

やっぱり面白かった。途中抜けているから追いつけるかな?と思っていたけれど、ぜんぜん大丈夫だった。

大丈夫だったのはなんのことはない、どこを読んだところで全員書いてあることがわからないからだ。前のところを読んでいることの優位がほぼない。

この日は98ページと99ページを読んだのだけれど、最初はやっぱりなにを書いてあるのやら、という感じだった。僕がなんとなくついていけたのは、この一節

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、

だけだった。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎない。そう書いているということは、西田は僕らと違ったかたちで時間を捉えている。そして、この文以外のところには「時間という形式を取り払った後の世界」のことが書かれていることになる。でも僕はそんな世界を体験したことはない。どうりで分からないわけだと思った。

でもこの会は不思議で、それぞれの参加者が分かるところから踏破を試みようとするうちに、だんだんなにかが見えてくる。「宇宙が……」「らせんが……」いろんな話をきくうちに「時間という形式を取り払った後の世界」が不鮮明ながらも姿を表すような感覚がある。

一番面白かったのは、ある人が「未来の自分からなにかが届いてきたり、いまの自分が過去の自分を変えていったりする実感がある」と語っていたことだ。

それは

我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生という者は此の如き一体系を成せる意識の発展である。(『善の研究』P.99)

と西田が書いたことに近しい体験に思えた。

いまの自分の思考なり決断が、同時に未来や過去の自分と呼応している。そんなふうに過去とも未来とも同時に相互作用しながら生きている人がいる。僕にはその実感はなかったけれど、他の人には近しい経験があった。そのことがとても面白かった。

それで気づいたのは「時間を取り払った世界」のように西田の書いていることがぶっ飛んでいるがゆえに、参加する人たちもぶっ飛んだことが語れるのではないかということ。何人かで集まっておしゃべりする時に、ある人の大胆な発言に触発されて、自分も大胆になれるような作用が西田のテキストにはある。

気合の入った本には、そういう作用があるのかもしれない。そして『善の研究』のいいところは「難しくてわからない」ところにあるのかもしれない。すぐに分かってぺらぺらしゃべれるよりも、ぶっ飛んだところでの語りができるようになるから。

僕らは普段「わからない」より「わかる」方がいいと思って生きている。「わかりやすく」物事を伝えようともする。でも「わかりやすい」ものばかり摂取していると、なにかが枯渇するのだと思う。

以前、難書を読むことを山登りに例えたことがあったけれど、こうしてみんなで登る山は険しくても楽しい。山登りなんてのは、さくっと登れちゃったら、つまらないんだろうな、きっと。

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