鬼が人になるとき。
映画『プリズン・サークル』を観た。
名古屋市内の小さな映画館。祝日だったからか場内は満席で、二時間以上に及ぶ上映の後半には蒸し暑くて頭痛がした。
でも、頭痛がしていたのは空調のせいだけじゃないと思う。
この映画の中で語られていた経験が、言葉の一つ一つが、リアルで聞き逃せないまま突き刺さるのだ。
時間を追うごとに「これは自分とは違う、別の世界の物語だ」と切り離すことができなくなっていく。
加害者であるはずの受刑者の痛みに、自らを重ねてしまう。
「誰だって幼少期にこのような環境に置かれたら、そのようなことをしてしまうのではないだろうか」
この映画を見終えて、僕はそう思わずにはいられなかった。
そんな彼らが過去の経験を振り返り、語り、聞かれることを通じて、すこしずつ変わっていく。それを観ながら「似たような感じのものに最近ふれたな」と思い出した作品がある。
『鬼滅の刃』だ。
現在大人気になっているこの漫画には、これまでのジャンプの作品と圧倒的に違うところがある。
それは仇である「鬼」の過去が語られること。
それも主人公に倒され、消えていく直前に。
ある鬼は作家として自分の作品をゴミ呼ばわりされていた。
ある鬼は夜がこわくて兄に手をつないでほしかった。
ある鬼は両親に自分の過ちを謝りたかった。
そうした悲しい過去が主人公、竈門炭治郎に聞かれ、触れられることで解けて、消えていく。
「小さな体から抱えきれない程、大きな悲しみの匂いがする.....」
と言って、炭治郎はその悲しみに触れにいってしまう。
殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上の被害を出さないため……勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。
だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない。
鬼は人間だったんだから、俺と同じ人間だったんだから。
(『鬼滅の刃』第43話 地獄へ より)
ふと、似たようなことを以前書いたのを思い出した。
「鬼」は痛みがひどすぎて、自分がなにをしているのか分かっていない。
そしてその痛みは、他のだれか、弱い立場の人が引き受けることになる。
その残念すぎる行為を、僕たちは止めることができない。
ペプシのCMでも「オニ」の話はされたきりで、桃太郎に退治される敵として描かれて終わってしまう。
いかなるお辛いことがあったのか。
なぜそれほどまでに暴れておられるのか。
それを聞き、涙を一つ、こぼす者があったならば。
それを炭治郎はしていることになる。
そして『プリズンサークル』で受刑者にかかわる支援員の人たちも。
人は人によって途方もなく痛めつけられ、他方で人によって癒される生き物だ。鬼となるか人でいるかはいつだって紙一重で、いまこうして心安らかにいられるのは本当にたまたまなのかもしれない。
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