むしろそのスパゲティーを食べたい。
「こう、スパゲティーなんです」
と、若いスタッフが言ったとき、頭の中にアルデンテのパスタが浮かんだ。
麺はストレートではなく、けっこうちぢれている。大きめのトングでつかまれて、ぶらぶらと垂れ下がっている。
といっても、今日はミートソースやナポリタン、ましてやイカスミの話をするわけではない。なぜなら、この発言があったのは、職場の仲間たちが研修の振り返りをしていた席だったから。
この日の午前中、僕たちは「子どもの話し合いをファシリテートする」というテーマで研修を受けた。そこで、話し合いを円滑に進めるいくつかの手法を紹介してもらった。
スパゲティーが唐突に茹で上がったのは、その振り返りでのことだ。
子ども同士の話し合いは、大人よりもずっと混沌としやすい。そのこんがらがった様のことを若いスタッフが「スパゲティー」と表現したのだった。
で、若いスタッフは、こう続けた。
「僕は議題よりも、そのスパゲティーのほうが好きなんですよね」
児童館で行われる「子ども会議」という話し合いの場では、子どもたちに児童館の運営について考えてもらい、社会参画をうながす意図がある。
だから「今度のイベントをどんなものにするか」とか「バスケットボールの貸出ルールについて」とか、なんらか決議したい議題があるわけだけれど、若いスタッフはそこから脱線した混沌を追いかけることを好んでいた。
驚いたのは、そう思うメンバーがほとんどであったこと。
彼らは一様に「むしろそのスパゲティーが食べたい」と熱く語り出した。
スパゲティーのようにからまった混沌を追いかけていくと、どうなるか。
答えは「なにかを決めることがとても難しくなり、話し合いは延々と麺のようにのびていく」だ。
もともとそれが大変だからファシリテーションを学ぼうという場だったのに、えらいところに結論してしまった。
でも、こうも思う。
自分自身の混沌に関して言えば、こんがらがっているうちにいつの間にかほどけているものも多い。
誰かと語ったり、別のことをしてみたりする中で、いつの間にか悩みが悩みじゃなくなっているようなことが。
あるいは、混沌の中からいきなり火山のように「本来語りたかったこと」が現れることもある。
以前ここに書いた「いじめ」の話なんかは、まさにそうだ。
こうしたことは、僕にとって自然現象に似て、コントロールがきかないものに思える。ファシリテーションのような、人為的な方法によって制御しづらいというか。
子どもの話し合いをファシリテートするのって、なんの意味があるんだろう。
みんなの話を聞いていたら、結局、そこに戻ってきてしまった。
そして、午前中に習ったことを、僕も含めてだれもやらないような気がした。
みんなきっと、そのスパゲティーを食べてしまうのだ。
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