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それはじぶんで分かっていくしかない。

自己啓発本はどんな書店にもコーナーが設けられ、いつもよく売れている。外国でも「SELF HELP」といって、日本と同様にたくさんの本が並べられているのを見たことがある。

でも同時に「自己啓発本は役に立たない」という声もよく聞く。僕自身も読んだ量に対して、実人生の中で使えたものは少ないなと感じる。

でもそれは、そこに書かれた言葉があまりにも「ほんとうのこと」だからかもしれない。そして「ほんとうのこと」は、自分で実際に体験するまでは「ほんとうだ」とわからないものだと思う。

最近、先生について編曲を教わっている。
いままで感覚的にしてきた作曲行為が理論的に解説される予感を感じて、頭がフル回転している。「ここにはなにかある」といううれしい高揚感がある。

そのレッスンで出た宿題の一つが「ギターの文字盤の音名を書き出して、見えるところに貼ってみること」だった。

文字盤2

十年以上ギターを弾いているが、こんなことはしたことがない。
実際紙に書いて壁に貼り、作業の合間やトイレで座っている時にぼんやり眺めていると、すぐに様々なことに気がついた。

「全部 AからGでできていて順番も同じなんだな」
「BCEFが集まるところが何箇所かあるんだな」
「同じパターンが繰り返されるところがあるんだな」

それだけで、てんでばらばらに思えていたギターの音にある種のまとまりを感じた。そして何より「ギターは6本の弦で6声(6つの音)を出している」ということが体感されるようになった。

それまで僕はギターの弾き語りをする時、「歌」と「コード」の2声で演奏している認識だった。でも実際には、歌と弦一本あたり1声ずつ6声を複雑に組み合わせて音を出している。

「ギターは6本の弦で6声(6つの音)を出している」

なんて当たり前のことだ。でもこれを「知っている」のと、本当に「わかった」のとでは体感がまったく違う。前者は自己啓発本を流し読みしたような揮発性の理解なのに対して、後者は身について応用がきく。ギターの例でいえば、実際に音の聞こえ方が変わる。そんなふうに知覚のしかたにまで変化を及ぼすのが「わかった」だ。

いま読んでいる若松英輔さんの『悲しみの秘儀』にこんな一節があった。

信仰とは頭で考えることではなく、生きてみることではないだろうか。知ることではなく、歩いてみることではないだろうか。(P.54)

この「頭で考える」と「生きてみる」、「知ること」と「歩いてみること」の違いと、ここまで語ってきたことは同じことだと思う。

同書には「人生は、固有の出来事の連続」という言葉があるが、だからこそ、理解もそれぞれに固有なのだと思う。本に書かれたり、他者に言われたりした言葉を、真に理解するには、その人がその人固有の道すじを歩き、自分でわかっていくしかない。

それは学校の「勉強」のように誰かと点数を比べ、競い合うものではなく、圧倒的に一人きりの道だ。だからこそ甲斐があるのだと思うし、その固有性に僕は惹かれる。



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