自分を決定づける特異点。
今年度最終日が、あと一時間で終わる。
新しいサービスの紹介ページを作るのに夢中で、ブログのことを忘れたまま、こんな時間になってしまった。
しかも、書くことがちっとも思いつかない。
仕方がないので、相変わらずハマっているこの本の響く箇所を引用することにした。
ひきこもりでも、解離症状でも、罪悪感でも、問題の生成プロセスは一人ひとり、みんな全然違うわけじゃないですか。ひどい親だ、ひどい先生だ、ひどい学校だと言っても、実際はその「ひどさ」には無限のグラデーションがあるわけでしょう?
その差異というか、微妙な違いをどうやってていねいに言語化するか、という努力を放棄して、するっとできあいの物語のパッケージにはまり込んでしまう。ぼく、その安易さがどうも気になるんです。
自分の身に起きている事柄には、「バリ」というか「バグ」というか、そういう「まだことばにできないような何か」、「できあいのストーリーでは説明できない余剰」があるわけでしょう。むしろ、その割り切れないところにその人の個性とか、スキームを書き換えるときの足がかりになるようなヒントがあったりすると思うんですけど、「バグ」や「ノイズ」を全部切り捨てて、できあいのチープでシンプルなソリューションに飛びついてしまう。
(略)
そういう行き止まり状況を打開して、そこから脱出するための手がかりというのは、実は自分の中にしかないんです。自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。
その誰にも共有されないもの、自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめて行き止まり状態から出られると思うんです。
(内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』P.29-30)
書き写してみると、まさに今年度、取り組んできたことの総決算のような文章に思えた。
2018年度は、勤め先の児童館で、日々の暮らしの中で、自分と身のまわりの人をいかに援助するかについて考え、悩み、取り組んだ一年だったと思う。
そして最終日を迎えたいま、いささか無力感をおぼえている。
「問題の生成プロセスは一人ひとり、みんな全然違う」、そのことに打ちのめされたような一年だったからだ。
自分についても、身のまわりの人についても、すっきりと解決できたことはあまりなかった。
もちろん、ゆかいなこと、面白いこともあった。進展したこともあった。けれど、とても動かしたいと思っていたことは、動かずに行き止まりのままにだった。
本の中で内田樹さんが指摘するように「自分の中の特異点を切り捨て、わかりやすいソリューションに飛びつこうとして」失敗したのかもしれないな、と振り返ってみて思う。
「自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめて行き止まり状態から出られると思うんです。」
その人がその人であることを決定づける特異点。
その特定に資する場合にのみ、対人援助というのは有効なのかもしれない。
けれど、僕(たち)が援助の名の下でやろうとすることのほとんどは、どこかで聞いたソリューションを当てはめることだったりする。その場で、その人だけに起きている事実の上に、自分で検証してもいない物語をかぶせてしまう。
そうではなく、その人の唯一無二性の力を、そして「人は自らの力で自分の中に手がかりを見つけられる」ということを、いかに信じきることができるか。
それが、明日4月1日からはじまる新年度のポイントになってくるように思う。
やってみたいことはたくさんある。わずかながら希望もある。
無力感があるからといって、絶望はしない。
往生際が悪いのかもしれないが、酸欠気味でもまだやれる。
そう言い聞かせながら、あと20分で、今年度が終わる。
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