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レースを降りたい。

SNSで紹介されていたこのマンガがぶっ刺さった。

男性は「名声」「仕事」「学歴」「地位」「収入」などで値踏みされ、それらにおいて良い結果を出すためのレースに強制参加させられている、という。まさしくそうだなと思う。

特に響いたのは、ここ。

結果が出せない人たちの多くは屈辱を感じながら「いつか見返してやる」と勝者たちの背中を追うか、社会を無視し続けるかしかなくなってしまう。

僕は30代のはじめに会社員をやめた。「社会起業に取り組みたい」と理由を説明していたけれど、本当は学生時代から続く競争から降りたかったのだと思う。

その後、NPOに入ったり、なにもしない時期を過ごしたり、人の話をきくことを学んだり、自営業をはじめたりしたけれど、ずっとしていたのは「レースから降りる」ことだった気がする。

「名声」「仕事」「学歴」「地位」「収入」そういうものに関わらず、人には価値がある。それを証明しようと躍起になった。そういう世界に生きたかった。そういう世界をつくりたかった。

福祉の世界に行ったのも「名声」「仕事」「学歴」「地位」「収入」に囚われない場所に感じられたからだと思う。実際、ビジネスに比べて、その力はずっと弱く、居心地がよかった。

でも、いまでも「自分は敗者だ」という劣等感はつきまとっている。

以前の記事で「働くことは好きな人だけがやればいいのに」と書いたけれど、それはこのレースに強制参加させられているのがいやで苦しいからだ。せめて「強制」ではなく「自由意志で」参加したい。そう思いながら、そうできないことに今もしんどさを感じている。

仕事の中身も働き方も環境も次々に変えながら、そんなことばっかり考えていた20年だった。心の中の野比のび太が宿題と聞くといつも枕をほうり投げて昼寝をはじめるように、仕事と聞くと逃げたい気持ちがいまでもある。

と書いたが、逃げたいのは仕事というよりこのレース、そしてそれを続けさせている「世間の目」を気にする自分からだった。

たまりかねた男性が「僕はもう成果なんてどうでもいい!」と言ったとしても、世間は成果で男性を測ることをやめてはくれない。

そういう「世間」が僕の中に刷り込まれている。自分がしたいこととは別に内なる「世間の目」を気にして動こうとする自分がいる。

けれどその自分は、いつも満たされない。

一年以上前に書いたこの記事が、最近になってよく読まれているのだけれど、

やっぱり男の人は傷ついているのだと思う。

こんなことを書いていても、心の中で「情けない!」と罵ろうとする自分がいる。「もっとできるはずだ」と奮起させようとする自分もいる。誰が味方で誰が敵かわからない。

僕は人生が用意した多種多様な体験や環境の中から、自分がしたいことをして、のびのびと暮らしていきたい。

ただそれだけのことがこんなに苦しくなってしまうのはなぜだろう、といまも考えている。

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