なんだかなぁの場所より。
プロ野球選手のことを考えていた。
彼らは怪我をしていても、機嫌が悪くても、調子が出なくても試合に出て、打席に立とうとする。そうして、打てたり、凡退したりする。試合に出たくても出られない控えや二軍の選手もいる。
その結果が、年末の今ごろ、契約更改として示される。
試合に出られて、いい結果を残せた選手には際立った対価が支払われ、そうでない選手は大幅なダウン提示、最悪の場合、戦力外通告を受ける。
先に試合の予定があって、それに向けてコンディションを整える。
プロ野球選手はそういう仕事だ。
プロのミュージシャンにもそういうところがある。
さっき B'z の会報を読んだら、先日の「hinotori」ツアーで稲葉さんは肺炎の症状を起こしながらステージに立っていたらしい。
僕たちが行った豊田スタジアムのときには、呼吸困難の症状すら出ていたのだとか。それであのパフォーマンスだったのだと思うのと、その強靭さに驚く。
先にライブの予定があって、稲葉さんはそれに合わせてコンディションを整えていく。
さて、こんな大げさなことを書き始めたのは、最近、僕自身の調子が今ひとつだからだ。
年末だからか、寒いからか、拡大した後の収縮なのかはわからないけれど、なんとなくちぐはぐで、力が出ない。ぽわ〜んとしていて、気が抜けているのが自分でもわかる。
そういうとき「調子がいいときだけ仕事ができたらどんなにいいだろう」と思うが、勤め人には勤務日がある。比べるのもおこがましいが、そういうところはプロ野球選手や稲葉さんと同じだ。
ありがたいことに、仕事にも職場にもいやなところはないし、別に元気だから出勤できるのだけれど、気が進まない。「打席に立てること自体よろこべよ」とも思うが、億劫でしかたがない。
以前、僕はフェイスブックにこんなことを書いた。
好かれるようにするのと
喜ばれるようにするのとは、
ほんの少しちがう。
でも、その差は大きい。
「好かれようとする」のは自分に、「喜ばれるようにする」のは他者に意識が向いている。
似たようなところでいうと「お金を稼ぐ」というときは自分に、「価値を提供する」というときは他者に意識が向いているのだと思う。
で、どうも他者に意識が向いているときの方が、物事はうまくまわる気がする。自己価値やお金から自由になっている人の仕事ぶりをみていると、つくづくそう思う。そういう人たちは、まるでそよ風のように心地よく他者との循環を生み出しているように見える。実にすがすがしい。
でも、あいにく僕はその途中で、調子が悪いときというのは、どうしたって自分のほうにばかり意識が向いてしまう。
樹齢1000年にもなる伊勢神宮の大木に憧れてみたり、福祉のサポートが必要な家庭のままならなさを思って、世をはかなんでみたりしている。
こういう自分は久しぶりだから、過去の自分と新しい自分が綱引きをしているのかもしれない。そして、こういうときの自分の考えることは、大抵なんの意味もないことも知っている。意味があるのは、そう言いたくなる思いのほうだ。
あとはまぁ、そのうち、こういう気分がなくなることも知っている。
カチッとギアがはまったら動けるようになるのだから、それまではこのなんだかなぁの場所でくつろいでいるしかないのだろう。
そういえば、同じ毎日の予定でも、こうして記事を書くことはいやじゃないことに気づく。もしかしたら、こうして書いていることで、僕は自分のどこかを休めているのかもしれない。
そんなわけで、大したオチもなく、この記事は終わる。
以上、なんだかなぁの場所より 澤 祐典 がお届けしました。
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