男が「男になる」には。
昨日、こんな記事が目に留まった。
女性が「鬼嫁」の状態になる原因は、男性にある、という記事。
「男が『男になる』とき」という場をひらいている自分の動機とも重なっていたので、はじめは「超いいね」を押して、シェアしようと思っていた。
でも思い直した。
読んでいて、僕自身が気持ちよくなかったからだ。
そして、その不快感は、目下、課題に思っていることとつながっていた。
「この言い方で、本当に男の人たちが『男になりたい』と思ってくれるのだろうか。」
男が、いない。
かく言う僕は、11月にまったく同じ趣旨の記事を書いている。
この記事も、その後に「男になる」ことについて書いた記事も驚くほどの支持を得て、シェアもたくさんされた。
とてもうれしかった。
けれど、途中で気が付きはじめた。
これらの記事に「いいね」「超いいね」を熱心につけているのも、シェアしてくれるのも、女性ばかりだということに。
男性に向けて書いたつもりの記事なのに、男性に届いている手ごたえがまるでなかった。
実際、その月の終わりに開いた初回の「男が『男になる』とき」の参加者は、定員七名に対して二名。お二人には本当にありがたいと思いつつ、あれほどの反響に対して、結果が伴っていないように思えた。
男が「男になれない」ことにより、女性が「鬼」にならざるを得なくなる。
これは本当にそうなのだと思う。
記事を公開した後も、身のまわりでそんな話をたくさん聞いてきた。
でも、その苦しみは、どうしたら男の人たちに聞いてもらえるのだろう。
先の二つの記事のようなコミュニケーションでは、男性には届かないか、敬遠されてしまうのではないか。
ここで、僕自身の話をしてみたい。
体育会系と僕。
僕は学生時代から体育会系の関わりが苦手だった。
上下関係が厳しく、上の命令には逆らえない。語調が荒く、言葉が汚い。
いつも叱責が飛び交い、有無を言わさず、なにかをさせたりさせられたりする。
苦しいトレーニングに耐え、体を鍛えて大きくし、敵を倒す。
酒を飲み、たばこを吸い、細かいことは気にしない。
僕はそうした体育会系の「男」になれる気がまったくしなかった。
高校入学の頃、ひょろっとしていた同級生がアメフト部なりボート部に入り、筋肉が盛り上がったマッチョになって、がさつに笑う様子を「気持ち悪い」と思って引いていた。
「男になれ」「肉を食え」「ビビってんじゃねえよ」
自分も使ったこうした言葉の中には、そのにおいがする。
力を使って一方的に、有無を言わさず相手を変えようとする暴力のにおい。
人は誰かから力で強いられて、なにかをしたいと思うものだろうか。
むしろ、それが嫌だったから女性は男性の力を怖れたのではないだろうか。
なんだか、同じ痛みが堂々巡りしているような嫌さがある。
女性が強くなり、暴力を使って、男性をやりこめるような。
それを人は「鬼」と表現したのではなかったか。
なぜ、こんなことを思うのかというと、僕自身が「鬼」となった奥さんと対峙することがあるからだ。
人が「鬼」になるとき。
奥さんが「鬼」になっているとき、僕は暴言を聞くことになる。
それを聞き続けるのはつらい。
それはいつも僕自身が「男になっていない」ことを批判している。
女性が「鬼」になる原因は男性にあって、相手を安心させてあげられていないから。「助けて」「不安にさせないで」その声に応えられていないから。
その通りなのだと思う。
以前、僕はこんな記事を書いたが、
まだ「男」になれていない。
七名定員の場を満席にすることもできなかったし、彼女が安心できる収入にも至っていない。金銭面での奥さんの不安をまったく解消できていない。怒るのも当然だ。
それでも、思う。
それでも、ここまで言っていいものだろうか、と。
こんなやり方で責められ続けながら、男は「男になる」しかないのだろうか、と。
暴言を吐いてもよい?
最近は「暴言を吐け」「ぶつけてよい」と背中を押す風潮もある。
発信源と思われる子宮委員長はるさんは 「自分に言っている」 と了解して目の前の相手に暴言を吐くなら何を言ってもいいと語っている。
その言葉によって傷ついた自分、悲しかった自分を抑圧しないために相手にぶつける。そうして自分を癒す。言いたいことはわかるけれど、暴言を聞いている側としてはやっぱりつらい。
そして、こうも思う。
暴言というのは、誰かからやってよいと許可されたり、促進されたりするものなのだろうか。
そうではなく「この人なら聞いてくれる」と思える大事な相手との関係において、やむにやまれず出てしまうものではないか。
そうしたやむにやまれぬ表現は、たしかに人間関係を大きく変えうるけれど、そうせざるを得ない状況は、やっぱりどこか悲しいことではないか。
こうしたことを置き去りにして、誰かから言われたという理由で「何を言ってもいい」と暴言を吐くとき、その人に相手に対する敬意はあるのだろうか、と。
話が逸れたけれど、その暴言を奥さんが口にしているとき、僕には彼女が本来の自分を見失っているように見える。
その代わりに、僕らのあいだには「鬼」が現れている。
笑うしかないやん。
「鬼」が現れているとき、人は通じ合えなくて、ただただ痛々しく、とても悲しい。
悲しくてやりきれない。
どうしたらいいか分からない。
芸人さんたちが「鬼嫁」と言って笑いに変えるのは、どうしていいかわからない悲しみを昇華しているのではないか。そんなふうに僕には思える。
こんなん、笑うしかないやん。
そんな気持ちが僕にも、そしておそらく僕以外の男の人たちにもあるような気がする。
男性と女性が仲良く協力しあって暮らしていてほしい。
僕もそうしたい。
そんな当たり前のことが、どうしてこんなに難しくなってしまうのか。
「鬼」のことを思うとき、自分の無力さと相手への届かなさとともに、自分たちをそうさせている状況へのやりきれない気持ちが残る。
僕たちが、いったい、どんな悪いことをしたというのか。
なんでこんな目に遭わなければならないのか。
ただ男であるだけで。
ただ女であるだけで。
男が「男になる」とき。
そんな僕が「男が『男になる』とき」という、男性のもつ力を取り戻すための場をひらいている。
最後に、その場をひらく立場から、男が「男になる」にはどうしたらいいと思っているかを語ってみたいと思う。
僕が希望を見出しているのは、僕自身が受けた『魂うた」や、自分が開いた「男が『男になる』とき」での体験だ。
男になることは、気持ちいい。
男になった人は、カッコいい。
この場にあったのは、それだけだった。
男になるって、いいもんだね。
男になってくれて、ありがとう。
そこには相手への敬意と「男になる」ことへの祝福があった。
かつて僕が嫌った体育会系の感じとは全然ちがった。
僕はいま、男の人たちに、そのことを伝えたいと思っている。
こんなへなちょこの、体育会系が嫌いな、筋トレが続かない僕でも「男になる」状態になれましたよ、そしてそれはすごくよかったよ、ということを。
それから、もう一つ。
ごく個人的な感覚だけれど、そんな僕でも『魂うた』以外に「男になる」ときがある。
それは、奥さんの痛みに触れているとき。
その痛みを共にしているところから「なんとかしたい」と思う。そして「待っていて」と力が湧く。
あるいは「この人が本当に大事でいとおしいな」と思うとき。
僕の中からエネルギーが出る。「よし、やるぞ」と思う。いいことを思いついたりもする。
それらは「湧く」とか「出る」もので、ごく自然なものとして感じられる。そしていずれも、お互いがやわらかく交流できる場所にいるときに起きる。
だから男が「男になる」という現象は、僕に関するかぎり、暴言を吐かれて、叱責されて、有無を言わさず強いられるものではない。
そうではなく、愛しさや悲しさを共にしている、やさしい場にその力はやって来る。
大事な相手とつながって、その人を想うとき、力が体の中を流れて、みなぎっていくみたいに。
奥さんが「鬼」になっているとき、僕にはそれができない。
つながれないから力がうまく出ないし、もどかしくてイライラもする。うまく聞けないし聞いてもらえないから、ひとりぼっちになって悲しい。
そういうとき、仲の良い状態に戻りたくて、なだめようとして何を言っても、守れもしない口約束になってしまう。
力んでなにかをしても、本当の力とはつながっていない。「頑張る」ことでカムフラージュしているだけなので、長くは続かない。
それを「鬼」は見抜いて責める。
僕は自分を守ろうとして、さらに理屈をこねて身を固くする。
なんでこんなことになるんだろう。
悲しくてやりきれない。
長々と書いてきたけれど、この文章も僕の弱さを隠す泣き言に過ぎないのかもしれない。「人のせいにするんじゃねえよ」「自分ばかり正当化してんじゃねえ」と「鬼」ならば言うだろう。
でも、ただ仲良くしたいだけなのに、こんなにもつらいのはつらいじゃない。
ほんとうに。
僕のひらく場が一度にすべてを解決するとは思わないけれど、どこに行っても、どうやっても「男」になれそうもない、僕と同じく苦しいあなたのきっかけになれたら。
最初は「女性の味方になれる」と浮かれていたけれど、いまはそんな願いから「男が『男になる』とき」という場をひらいている。
僕とあなたと「鬼」と。
ただ、みんなが仲良く、安らかであれたらいいのにね。
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