わかりようもない未来を見こんで。
いま、新しく住む家を探している。
どんな引っ越しでもそうだが、本当のところ、住んでみないとわからないのに、住んでどうなるだろうかと一生懸命想像する。内心「わかりっこないよ」と思いつつも、やっぱり想像力をあれこれ働かせて、見えるはずのない未来の手触りをつかもうとする。
どうしてこんなにわからないことだらけなのかな、と今日ちょっと思った。
もう少し先が読めたら、もっと安心して未来のことを決められるのに。
実際、住む前に想像した未来のイメージは、住んでしまうと忘れてしまう。けれども、その不確かな未来のイメージは、その家に住むかどうかを決める上では、強い影響力をもつのだ。
これは引っ越しだけの話ではない。進学、就職、転勤、異動、結婚、あらゆる人生の転機において、僕たちはわかりようもない未来を見込んで判断せざるを得ないのだ。
そんなふうにして、今日も僕と奥さんは博多であれこれと想像をはたらかせた。楽観的なビジョンもあれば、悲観的な予想もあった。どれが当たるかはわからない。どれかだけを信じるほどでもない。
そして人は、最後の最後は「えいやー」で決めてしまう。
それまで列挙してきたメリットとデメリットは、決断のフェイズにおいてはほぼ無視される。決断というのは、知的な分析ではなく、筋力をつかった跳躍行為だからなのだろう。
跳躍するとき、人はそこに谷をみている。
その谷は論理的な思考で最後の最後まで埋まらない谷だ。
そうやって、一つ、二つ、三つと谷を越えて、いまの生活がある。ぴょんぴょんぴょんぴょん、バッタかカエルのように跳躍を繰り返しながら、できたのが、いまだったんだよな。
でも、かつて跳躍したことなんて、いまの僕らはすっかり忘れている。
きっと今度する決断の跳躍のことも、やがては忘れていくのだろう。
それでもやっぱり、手に汗にぎるぜ。
そこに確かに口を開けた谷を感じているのだから。
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