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アニメ的表現を貫いた神アニメ『スーパーカブ』第1期を総評します

『スーパーカブ』、終わってしまいましたね。

 この3ヶ月間、非常に充実した日々を過ごさせていただきました。久々にアニメを1話から通して追えましたし、完走する事もできた。

 始まる前の記事や5話までの記事は別に書いたので、どうぞそちらをご覧ください。

オススメしたい春アニメ『スーパー・カブ』と、非ファンタジーラノベが好きなんですという話|二岡せきぬ

アニメ『スーパーカブ』が予想以上に良い出来なので、原作のシーンと照らし合わせながら魅力を語ります|二岡せきぬ

 今回はそんな『スーパーカブ』の総評を語ってみたいと思い、書かせていただいている次第であります。

 で、こんないかにも誉めるみたいなノリからでなんなんですが(笑)最初にファンの間で物議を醸したシーンから語ってみたいと思います。

・なぜ11話の冒頭シーンで違和感を覚えたのか?

 その前にまず6話以降の全体的な流れを追っていきましょう。

 第1話の最初にカブに乗ったシーンに象徴されるように、『スーパーカブ』は台詞以外でキャラクターの感情を説明するシーンが多かった。

 加えて文字で表現するしかない原作ではわからなかった小熊の表情の豊かさが5話まで多分に描かれていたというのは以前ご紹介させていただいた通りです。

 でそこまでは良かったのですが、正直6話~7話に関しては個人的にあんまり観ていて驚きがなくてですね。もちろんストーリー上小熊がカブで鎌倉に行く話も椎と出会う話も必要なのですが、正直言ってよくある原作の映像化になっていて、アニメの演出的にはあまり面白いものではなかった。

 もちろんそれが悪いわけではないのですが、ラノベ原作の映像化という点だけで見たら正直他にもっと優秀な作品はあるんですよ。例えば『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』とか、原作をちゃんと原作通り映像化させつつ、絵だけでわかりにくい場面にはちゃんと説明ゼリフを入れていたじゃないですか。

 そして俺ガイル自体アニメ映えするような作品でもあるわけです。

 対して『スーパーカブ』って申し訳ないですがアニメ映えはしないじゃないですか(笑)女の子がスーパーカブを買って人生楽しむっていう、言ってみたらそれだけの話なので。

 ただ原作は小熊の心情描写で世界観を充分に補っている上に、章を細切れにする事で読みやすくしている。非常に小説というサイズにピッタリな作品なんですね。

 しかしそれを映像化しようとした時に、ただただ映像化しようとすると説明みたくなりますし、一方で画だけで表現しようとするとどうしても「え?」という部分も出てきてしまう。

 例えば6話で小熊と礼子がカブで2人乗りするシーン。このシーンは原作でもありまして、アニメよりも短く書かれてはいるのですがアニメスタッフが考えたオリジナルシーンではないんです。

 原作ではカブに2人乗りする際、こういった小熊の心情描写がされています。

 自動二輪免許取得後一年未満の二人乗りは禁止されている。小熊は教習所で習ったことを今さら思い出したが、特に解決の優先度が高い問題ではないと判断し棚上げすることにした。
 カブによってもたらされた小熊の今の暮らしは交通反則金くらいで揺らぐものではないし、小熊とカブの関係も、走っていればいつかは切られる青キップ一枚程度で変わることは無いだろう。
 そんな些細なことよりも、何か大事な話があるということには、気付いていた。

 アニメではこの説明が直接的には表現されずに進行した為、「2人乗りは良くない」などという糞みたいな…失礼、心配の声が一部から噴出したわけです。

 あそこが説明不足だったかと言われると否定しきれないところではあるのですが、問題はそこではないと考えておりまして。

 第11話『遠い春』の冒頭、自転車で走行中川に転落した椎が小熊に助けを求めた場面。

 小熊は救急車を呼ばず自分のスーパーカブで助けに行き、椎を自宅に連れ帰ったわけですが…実はこのシーン、アニメの中で一番叩かれたシーンでもあったわけです。

 まあまず「救急車を呼べよ」という意見。続いて椎を助け出した後眠ってしまいそうな椎をひっぱたいた事に対する「小熊のキャラが急に変わりすぎ」という意見。

 極めつけは椎をカブの前かごに載せて家まで走り出したシーンで「濡れた体で前かごに載せるのは死ぬ可能性があるだろ」という意見ですね。

 まあ確かにこの意見はごもっともなんですよ。元々『スーパーカブ』はかなりリアルめの描写をしていた作品でありまして、それがこのシーンだけかなりファンタジーであると。そこに批判が集まったのは、ある意味仕方ないかもしれません。

 しかしこのシーンも原作にありましてですね、原作ファンの中ではこのシーン叩かれてないんですよ。

 それはじゃあやはりアニメスタッフの演出不足だったのか?と言われると、個人的にはある部分では正しいが完全にそうとは言い切れないと思うんです。

 まずは原作の描写から見ていきましょう。

 椎の生命が危機に晒されているなら、真っ先にすべきなのは警察か救急への通報。正義の味方はそのために血税で養われている。
 以前小熊の暮らすアパートの近隣で不審火が発生した時、住民が通報したことがあったが、この辺りの警察、消防の反応は悪くない。都心よりは時間がかかるけれど、十分もすれば赤灯を回した車がやってきて椎の捜索と救助を始めるに違いない。
 十分プラスアルファ、それは冷たい清流に浸った人間が死に至るには充分すぎる時間。
 プロのレスキューでも無い自分が椎を助けに行くべきか、それとも少々の時間を浪費して一一〇番か一一九番に電話するのが先か、自分は、人に助けを求められ、颯爽と駆けつけるような人間ではない。
 ほんの一瞬でそこまで考えた小熊は、携帯から椎に向かって言った。
「あと少し頑張れ、スーパーカブが必ず助けに行く」

 これが椎に電話をかけてこられてから小熊が助けるまでに考えていた事なんですが。

 でここからアニメ通りのシーン展開が起こっていくのですが、やはり原作ファンでこの場面を突っ込む人は特にいなかった。

 それは原作がちゃんと説明しているから、ではなく、小説というジャンルが情報量の極端に少ない故にできた事だと思ってるんですね。

 確かにアニメではこういった事があまり説明されていなかったわけですが、いちいち説明していると尺が足りなくなる。アニメというのは23分間という決まりがあるわけで、しかも説明ばかりしていたらアニメでやる意味があまりない。

 だからこそアニメでは画で見せる事によって心情描写を補おうとしていたと思うのですが、どうしても荒唐無稽なシーンになってしまった。

 一方で原作は小説であり、小説は尺という概念がない。一方でラノベという挿し絵の比較的多いジャンルとはいえ画を見せて説明するという事もしにくいのですが、読者に脳内補完してもらえるという利点もあるわけですよ。

 小説を読んでいる時、人は意識的でも無意識的でも読みながら脳裏にそのシーンを想像します。自分の中で想像する事によって、情報が決まっているアニメや漫画にはない、その人独自の画を浮かばせる事ができる。

 小説でも例えばキャラクターがしている突飛な行動を詳細に表現されると違和感を覚えてしまうものですが、キャラクターの心情表現で書いていけば読者が解釈してくれて違和感なく読んでもらえるわけです。

『スーパーカブ』の場合、女の子がスーパーカブと出会って人生を変える話というのが主軸になっていますよね。

 つまり、椎に助けを求められた小熊が救急車を呼んでしまえばそれこそ小説ではどっちらけになってしまうんですよ。

 スーパーカブと出会い人生が変わった小熊。そんな小熊と出会い、憧れた椎。

 そんな彼女が助けを求めてるんですよ?カブで行くしかないじゃないですか!

 …というのが、原作なんですよね。

 でも同時に、それが通用するのは小説だけなんですよ。正直小説ってラノベでももう読む人の読解力が高くないと手を出さないものになってるじゃないですか。

 だから読み手が勝手に解釈して補ってくれないと成立しないんですよ。

 アニメでは映像なので、正直どんな人でもなんとなく理解できる。もちろんアニメは深いものなので注意してみないとわからない表現をしようと思えばいくらでもできるわけですか、一方でわかりやすい部分に食いつかれてしまいがちなものでもある。

 というところで起こってしまったすれ違いなのかなあと思うんですよね。アニメスタッフも視聴者の読解力を過信しすぎていた部分があったのでしょうし、いくら良い表現をいっぱいしていても1つのシーンを突っ込まれて評価を下げてしまったのは非常に惜しかったなあと感じます。

 しかし、ちょっと待ってください。やはりこのアニメはそんなちゃちな批判で終えるには惜しいほど表現が神がかっていた作品でもあるわけです。

・見過ごされた11話中盤の食器洗いのシーン

 先ほど6~7話はあんまりだったと書きましたが、8話以降はまた素晴らしいものを見せてくれてたんですよ。

 例えば1話のスーパーカブに乗った瞬間のような、色が変わるシーン。


 椎の家に行き、初めて彼女の淹れたコーヒーを飲んだシーンですね。

 続いてこちら。


 防寒グッズを着けて走り、その効果に小熊が喜んでいるシーンです。

『スーパーカブ』というアニメでは、小熊の心情の変化に合わせて背景の色が鮮やかになるという表現をしています。

 アニメならではの、小説ではできない手法ですよね。こういうのをアニメ版では徹底して行っていたわけですよ。

 この「台詞で表現しない」演出の集大成とも言うべきシーンが、11話の中盤にありました。

 濡れた椎を自宅に連れていき、風呂に入れてあげる小熊。川に落ちたモールトンを回収してくれた礼子も合流し、3人で夜ごはんを食べる。

 食べ終わった後の食器を椎が洗っている時、礼子が彼女にこう告げます。

「あのモールトン、もうダメだから」


 原作では「洗い終わった後」で言ったのですが、アニメでは洗ってる途中に礼子に言わせた。これが本当にナイス判断だった。

 で、こう続きます。


 もうお気付きかと思いますが、「モールトン、もうダメだから」と言わせたあたりからあえてキャラクターの顔を隠すように描いてるんですよ。

 更に続きます。


 僕このシーンが本当に凄いと思っていて、まあわかりやすく悲しませてもいいわけじゃないですか。そっちの方が視聴者にも伝わりやすいですし、「泣いた…」って言ってもらいやすい。

 そこをあえて顔を隠し、茶碗から水が溢れ出す様で椎の感情を表現した

 こうする事で、観ている側は椎に対して「何を考えているのか」と想像するようになるんですね。

 つまり単純に泣き顔を見せたらそれで終わる。「泣いた」で終わるわけですが、あえて遠回しにする事でより身近に椎の気持ちを理解する事ができる。

 更に一連の流れが続きます。


「冬なんて……嫌いです……なんでこんなに寒いんですか」

 震えた声を出す椎の顔を、しかしまだ見せない。


「お願いです小熊さん、今すぐ私を助けてください、またスーパーカブで私を助けてください」

 小熊の服を掴み、涙声で訴えている時にやっと椎の顔が見える。


「この冷たくて暗い冬を、どこかに消してください」

 ここまで椎のちゃんとした顔を見せない事で、より感情移入できる作りにしていて、本当に素晴らしい。

 このシーンを見た時、思わず「すげえ」と声が出ちゃいまして。やはりこれもアニメならではなんですよ。

 原作のシーンとセリフこそ同じですがやってる事を少し変えて、食器の水などでキャラクター達の感情の動きを表現しきった。

 これこそが話題になるべきであって、断じて冒頭のシーンの突っ込みではないんですよ。

 もちろん「でも突っ込まれてもしょうがないじゃん」という意見もあるでしょうし、それは否定しません。

 ですが『スーパーカブ』というアニメがいかに挑戦的な事をやったか、そしてやり遂げたのかを語らなければ、アニメという文化自体があまり深いものではなくなってしまうように感じてしまうんですよね。

 原作の映像化は大事、わかりやすい説明も大事。

 しかしそれだけではアニメというジャンル自体の意味がないですし、アニメでしか成立しない表現方法があるのであれば、それをちゃんとやってくれて見せてくれた事に関してリスペクトを送りたい。

 これをやり遂げてくれたからこそ、最高の12話に繋がったと僕はそう思うんです。

 12話でアニメは終わってしまいましたが、是非2期もやってもらいたい。そしてまた同じスタッフで作ってもらいたいと、心からそう願っております。

 感想は以上です。本当に2期を作ってもらいたいですよ。原作では2巻分まで消化したわけですが、3巻以降で椎の妹キャラも登場しますし、またその娘が良いんですよ(笑)詳しくはネタバレになるので言いませんが、良ければ原作を買って確かめていただきたいです。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。『スーパーカブ』に関しての記事はこれで一旦終了いたしますが、また何か面白いアニメがあったら書かせていただこうと思っております。

 それでは。

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