書評:訂正可能性の哲学(東浩紀)

本書は、東の過去作「観光客の哲学」「一般意志2.0」の続編とも言える内容になっている。過去に彼の著作を読んだり、一度でも東先生の思想に触れたことがある人であれば、その時の考えがどのように今の時代に合わせて昇華されているのかを垣間見ることができる内容となっているので、ぜひ読んでいただきたい。

この本の内容をざっくりと要約すると、こん感じである。
・共産主義も自由主義も保守もリベラルも結局は、家族という概念をもとに作られている。
・どの家族的な集団にも独自に成立しているルールが存在しており、時折その規則は偶然によって訂正されうるものである。
・アルゴリズムによって、一般意志が決まってしまう人工知能民主主義の危険性は、民意が固定化しまい訂正不可能なところになる。

はじめに「家族」という概念が紹介される。

第1章 家族と訂正可能性

家族を公共と対立させる思想。これは確かにわかりやすい。家族とは常識で考えれば、「私」のエゴに満ちた、閉鎖的で排除的な人間関係の代名詞だ。そして哲学は、まさにそのようなエゴからひとを解放する営みだ。だとすれば、哲学者が家族を否定するのは当然のように思える。

社会は確かに家族よりも広く、これまで多くの哲学者がその社会の理想的なあり方について様々な角度で議論をしてきたが、結局は家族という形態に依存した形で議論をしてきている。

第2章 家族的なものとその敵

家族の定義を別の角度で考え直すという意味で、著者はここでヴィトゲンシュタインとクリプキを引用している。まず、ヴィトゲンシュタインの話では言語ゲームと家族的類似性という概念を紹介している。この辺りから、東がなぜ共同体に近しい概念を「家族」という斬新な切り口を使って、説明をしようとしているのかが見えてくる。

わたしはこのような類似性を、「家族的類似性」という言葉によってより異常によく特徴づけることができない。なぜなら、ひとつの家族の構成員のあいだで成立している様々な類似性、体、容貌....なども、同じように重なり合い、交差しあっているからである。-だからわたしは、「ゲーム」をひとつの家族を形成しているという」

別の言い方をすると、ゲーム自体には言語ゲームの特性から本質はなく、愛のゲーム、ハラスメントのゲームというように、ゲーム自体の意味合いがどんどん変化をしていくようになっており、その意味で家族は言語ゲーム的に成立しており、開放的であるとも言える。

また、固定的だと思っているルールは、一定固定化されたものでありつつも、常に書き換えられるものでもある。

だから家族は、閉じているとも開かれているともいえる。家族は遊びを共有する親密な共同体であり、その規則を理解できない参加者は、クリプキのか議論者のようにあっさり排除される。だから閉じている。けれども、さきほど尻したように、時にそんな遊びに参加する他者が現れ、思いもよらぬ行動によって規則を遡行的に訂正してもらうこともある。だから完全に閉じているわけでもない。

第3章 家族と観光客

前章で紹介した家族はまた観光客的な特性も帯びている。

家族は観光客で作られる。家族は誤配で生まれ、訂正可能性によって接続する。それが僕の考えだ。僕たちは家族を作る。...家族や人生の運命なるものは、遡行的に様々な訂正によって、いってみれば捏造されたものでしかない。誤配と訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。家族とは申請で親密で運命的でそし訂正不可能な閉ざされた共同体という発想の方が非現実的なのだ。

第4章 持続する公共性へ

ここで公共性について考えるために、政治哲学者ローテぃの考えを隠喩おする。ローティの哲学では、何かの理想での連帯で社会を基礎付けるのではなく、別の形で社会を基礎づけるべきだと答える。

ローティの考えでは、そのような共有によって社会全体の連帯を基礎付けることは本質的に自由民主主義の原理に反している。そのやり方では、価値観を異にするひとは社会から排除されることになるからである。ひらたくいえば、「文句があるならこの国から出ていけ」ということになるからである。...それゆえリーティは、思想や価値観の共有ではなく、目の前の他者が感じている「苦痛」への共感の方が、連帯の基礎として有望だと考えたのである。

そして、この連帯や他者への想像は偶然の産物として生まれてくるとしている。だからこそ、書き換えが可能なのだ。

ローティの書物は『偶然性・アイロニー・連帯』と題されていた。アイロニーと連帯と並び、「偶然性」という言葉も鍵概念となっている。なぜ偶然性が重要なのだろうか。共感や想像力は「わたしたち」から出発するしかない。それがまずは彼の主張だ。けれども他方で、ローティはその「わたしたち」の範囲が「偶然的」であることも繰り返し強調している。ぼくたちは確かに特定の国に生まれ落ちる。アメリカ人なり日本人なりに生まれ落ちる。それは避けられないし、そのかぎりで想像力の限界を抱える。しかし同時にその条件は、その想像力の範囲にはなんの必然性もないことも意味している。ぼくたちがアメリカ人だったり日本人だったりすることには必然性がない。したがってアメリカ人風に考えたり日本人風に考えたりすることにも必然性はない。その徹底した根拠の不在=偶然性を自覚するのが、彼のいうリベラル・アイロニストなのだ。

第6章 一般意志という謎

ここでルソーの一般意志と特殊意志の考えについて紹介した上で、過去作「一般意志2.0」の批評へとつなげている。

一般意志もまた特殊意志の集まりではあるのだが、しかしたんなる集まりではあるのだが、しかしたんなる集まりではないという実に厄介な書き方が付されている。ルソーによれば、両者の差異は公共性と関係している。公的な利害はいくら集めても私的な利害でしかない。特殊意志が集まってつくられた全体意志も私的な利害でしかなく、社会全体の公的な利害を代表することはできない。

また、東はここでアルゴリズムによって、ルソーの一般意志のようなものが決まってくる人工知能民主主義の批判につんがている。(第5章で紹介)前章の人工知能民主主義は訂正不可能なものとして解釈されてしまっている、ある意味静的なものととして解釈されていうというのだ。これは成田氏の「民主主義は人間が手動で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、自動で無意識的に実行されるものになっていく」という主張に対する批判にも通ずる。

しかしぼくは、そのような思想には根本的な欠陥があると考える…まず第一に、そこまではここまで検討してきた「訂正可能性」をめぐる複雑なダイナミズがいっさい考慮されず、端的に無視されてしまっているという問題がある…人工知能民主主義者は、素朴に、民意を抽出できれば理想の民主主義は実現できると考える。…ひたらく言えば、民主主義を独裁と同一視するシュミットのような解釈を否定できないまま、人工知能の統治への利用を進めていくことを意味してしまうのである。

とはいえ、ルソーの民意の抽出手段としての一般意志は検討することができるのではないかと、東は続けて主張する。個人的にはアルゴリズムが学習し続けることによって、訂正可能性は残るのではないか?と思ったりするのであるが、その辺りはどうなのだろうか?

第7章 ビックデータと「私」の問題

ビックデータを使用することで人々の趣味趣向や行動を予測しやすくなったが、それはどういうことか。その仕組みを解き明かす上で、データサイエンティストのキャシー・オニールの考えを引用する。

ぼくたちは無数の個人情報をばらまいて生活をしている。けれども、その集積あるビッグデータをひっくり返しても、じつはこの「ぼく」という特定の全体像を掴むことは難しい。…だから分析者は、あなたを探す代わりに「あなたに似ている人々」について計算を行うことになる。そして[あなたに]「似た人々」が借金を踏み倒していたり、それどころか犯罪者であったりすれば、あなたも「そういう人」として扱われることになる。

第9章 対話、結社、民主主義

絶対的なものが訂正可能とはどういう状態を表すのか。それを表すためにパフチンの主張を引用している。一般意志は自然であり、善であるし、公共の力の源泉ではあるが、放置することで暴力となってしまう。

2かける2の答えは5かもしれない。それはいままで築き上げてきた乗算の蓄積を全てひっくり返しかねない、とんでもないクレームである。にもかかわらず、いままで繰り返しみてきたように、ぼくたちはそんなクレームを投げかけるか議論者を決して排除できない。

そして、本章の結論として一般意志の導き方と、そのあり方についてまとめている。

一般意志は「私」を必要とする。政治は文学を必要とする。…人間のコミュニケーションの条件そのものから導かれる、厳密な論理的な話である。ぼくたち人間は、絶対的で超越的で不普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しか持っていない。政治の構想もまたその限界には制約される。だからぼくたちは決して、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。

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