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ペンギンたちの夜間飛行


 手首を切ろうとカッターの刃を当てた時、真衣は「やっぱり痛いのは嫌だ」と諦めてしまった。死んでみたいと思ったけれど、それはよくよく考えると「今すぐ逃げ出したい」という衝動だ。ここからいなくなることができれば、家族から遠ざかることができれば、真衣はきちんと生きて行けることに気付いた。
 だいたい上手く自殺できたとして、過保護で共依存を望んでいる母親は絶望して後追い自殺をするかもしれない。天国があるのかどうか知らないけれど存在していたとして、すぐに涙の再会になってしまう可能性がある。
「真衣ちゃん、どうしてママを置いて死んじゃったの」と迫られても、「だってお母さんのそういうところが嫌だったんだもん」としか言えないのだ。
 そんなことはひとつも望んでいなくて、いちばんは家族から逃れたい。いっそノストラダムスの大予言が真実なら良かったのだ。去年には地球が滅んでいたはずなのに、ピンピンとして元気にまわっている。真衣の心境とは裏腹に西暦二千年をむかえた世界は、どこか浮かれているように思えた。
 友達とお揃いで買った無印良品のカッターを勉強机に置くと、真衣はしげしげと部屋を見渡す。生まれたときからこの家に住んでいて、ずっとこの部屋で育った。物を捨てることが苦手な母親がやれランドセルだ中学の制服だ、バレエの発表会で着た衣装だと取っておきたがるのでクローゼットはパンパン。真衣が整理しようとすると、途端に不機嫌になるのできっと高校生活での思い出も大事に取っておくだろう。だんだんと思い出に圧迫されて潰されてしまう気がする。
 愛情を持って大切に育てられた自覚はあって、不自由なく恵まれた家庭環境だと思う。あくまでも外側だけ、この状況だけを見たら。貧しい思いをしたことがないし、なにより衣食住に困ったことがない。でもここから今すぐ逃げ出したかった。事業に失敗した父親の借金苦から母親の兄弟に頼らざる得なくなり、七年前から同居している叔父に真衣は性的な嫌がらせを受けている。
 ある日ひょっこり、叔父は真衣の家に住み着いた。当然のように母親の作ったご飯を食べ、客間を自分の部屋として寝泊まりをしている。
 叔父は真衣の部屋で頻繁にテレビゲームをしていて、学校から帰って来た真衣が制服から着替えるときも気を利かせて去ることはない。出ていって欲しいと願っても、「バカじゃねえのか。お前なんて小さい頃から知っているし、ガキとしか思えないよ」とあしらわれるのだ。風呂に入ろうとして脱衣所で鉢合わせても、平然と洗面台の前で歯を磨いている。真衣の中学時代など第二次性徴期で小さく膨らんだ胸を凝視して、「そろそろブラジャー着けた方がいいな」とのたまった。
 耐えきれなくなって母親に抗議しても、「家族なんだから恥ずかしいなんて言う考えがおかしい」と咎められ、「変に色気づいて、ませちゃって」となじられる。
 真衣は十七歳で立派に女性として成長し性的なパーソナリティを守られる権利があるはずなのに、家族という大義名分を振りかざして両親は真衣を守ってくれることはなかった。
 それ以来、真衣はぎゅっと湧き上がる嫌悪感を押さえつけている。激高すると手がつけられない状態になる母親を刺激することは避けたかったのだ。この状況に関して、父親はまるでだんまりだった。生活費を入れてくれ、祖母の遺産を使って借金の一部を肩代わりしてくれた叔父に頭が上がらない。
 そして母親はいつまでも真衣を純粋な子どもで、自分の所有物だと思っている。真衣の初潮は小学校五年生で平均的な年齢だったのに、血のついた下着を見た瞬間に顔をしかめて「おめでとう」と言った。真衣は友達と気軽に月経について話せるようになるまで、女性にとって当たり前にあるこの現象を汚らわしいと感じていたのだ。母親は性的なことに疎くて初潮が十五歳だったとよく聞かされていたし、月経が来るたびに「私はませているから生理になっちゃったんだ、お母さんから嫌われる」と思い、未発達な身体で不定期にやって来るそれが忌まわしかった。
 母親はさらに真衣を子ども扱いしながらも、真衣に夫や弟の不平不満をぶちまける矛盾さを持っている。真衣は聞き分けよく、黙って母親の愚痴を受け止める存在だった。
 ずっと家族の顔色を伺いながら生きていて、この息苦しく狭い世界か消えてしまいたい。ろくに反抗もせず良い娘であろうとすることが辛かったのだ。しかし潔く死んでこの世からドロップアウトするほど、絶望をしていないらしい。
 真衣は人生に悲観している一方で、あっけらかんと未来を夢見る気持ちがあった。「家族から離れたら、自立ができたら解放されるに違いない」と考えると、自殺なんて得策ではない。来年を耐え抜き、高校卒業と同時に家を出よう。両親は真衣が大学に進学することを希望しているし相当に反対をするだろうが、やり抜かなければ真衣はそれこそ死ぬしかこの状況から脱せないのだ。
 それまでの間、浮き沈みをする感情を吐き出したくて、両親に与えられた携帯電話を手に取った。ストラップをじゃらじゃらとつけた赤い二つ折りのガラケーだ。学校やバイト先から帰宅するときは必ず連絡するようにと、真衣は比較的早い段階でケータイを持つことが許された。友達には打ち明けることができない思いを誰かに聞いてほしいと願うようになり、ケータイでもインターネットに接続ができることを知った真衣はとある掲示板にたどり着いたのだ。「びあんワールド」という名前のサイトは女性同士を恋愛対象とするレズビアン達の交流場で、恋人や遊び友達を募集したりオフ会の情報が飛び交っている。
 自分のセクシャリティについて真衣はこれまで考えたこともなかったし、小学生まで好きな子は男子だった。しかし女の人を恋愛対象にしても良いのだと気付くと、ストンと腑に落ちる感覚がある。ときに母親から「人間は必ず結婚するのよ」と言い聞かされ、「結婚なんて人生の墓場なのよ」と語られ、真衣は世の中の男女がつがう仕組みに疑問を抱いていたのだ。そんなに父親と夫婦でいることがつらいなら離婚してはどうなのかと尋ねたこともあったけれど、母親はため息をついて「今さらあの人を見捨てられないし、どうやってあなたを育てていくの?」とつぶやく。自分の存在が母親を縛り苦しめているようで、真衣はもう二度と離婚の話題を口にすまいと思っている。真衣のために母親は叔父や父親と一緒に暮らすことを選んでいると考えると、無性に泣きたくなるのだ。
 だからこそ余計に、真衣はこのサイトが新しい世界に感じる。眺めていると、なにもレズビアンだけではなくバイセクシャルや「性的嗜好を決めかねている人」もいるようだし、友達に自分の性的なトラウマを話せない真衣はほんの軽い気持ちで、メル友募集のスレッドに書き込みをした。
『高校二年のマイです。まだ女の子が好きかどうかわかりませんが、いろいろ悩んでいてメル友が欲しいです』
 他人の書き込みを参考にしながらカチカチと入力ボタンを押し、少しの決意を込めて送信ボタンを押す。書き込みをしただけなのに、相当な大仕事をした気分だった。このごろ、若い女の子が出会い系で知り合った男性に殺されたり誘拐されたりという事件が増えていて、母親は「あんた、こんなこと絶対にしちゃだめだからね」と念を押してくる。真衣を子どもだとみなしているのに、変なところは敏感なのだ。たぶんこのサイトも出会い系の一種なのだろうから、バレたらなんと大目玉を食らうことか。母親に隠れていけないことをしている分も含めて、変な高揚感が生まれていた。それでも、すぐに返事がなくて真衣は書き込んだことを少しだけ後悔したのだけど。いきなり知らないメールアドレスから連絡が来たのは、書き込んで数日たったときだった。
『はじめまして、アヤと言います。既婚者だけど、結婚する前はビアンでした。彼女とかつくる気ないけど、私も誰かと話したくて。マイちゃんよりちょっと歳上で二十二歳です。よかったら話しませんか?』
 まさか返事が来るなど思ってもみず、年上から返事が来たことにも驚いたが、既婚者でレズビアンという情報量の多さに真衣は面食らった。それはつまりバイセクシャルではないのだろうか。ベッドに寝転がりながら、真衣は返事をするか悩む。しかしどうせ顔も合わせないバーチャルな関係なのだから良いかと、好奇心に勝てず返信をした。
 アヤとは何ヶ月も毎日メールをし、真衣は誰にも言えなかった家族への感情を吐露することができた。『なにその男、ちょうキモい。両親だってサイテーじゃん』と即答され、心底嬉しかったことを覚えている。自分ではない誰かに共感されることで心に負っていた傷が癒やされる気がした。アヤにも人には言えぬ悩みがあったようで、『旦那が浮気して、問い詰めたら「俺が死ねばいいんだろ?」って喚くのよ。なんだか馬鹿らしくなって、私も不貞行為を働いてやろうと思ったんだけど、男とする気になれなくて。あいつと出会うまで、女の子としか付き合ったことなかったんだよね』と打ち明けてくれた。
『自殺ってそんな簡単じゃないよね。私も死のうと思ったけど、やっぱ無理だったよ。アホらしくなって。ようはあのキモ男やお母さんから逃げたら解決じゃん』と返すと、『そりゃそうだよ、とっとと逃げな。マイちゃんなら大丈夫だよ』と背中を押してくれる。アヤは真衣の欲しい言葉を与えてくれた。子どもの素直さでこんなに自分の気持ちを話せた人は初めてだ、と胸が高鳴る気持ちは恋に近い。そして本当に話し相手がほしいのなら、同年代とメールをすれば良いのになぜ自分に話しかけてくれたのだろうと疑問を抱く。
『どうして私とメル友になりたかったの? アヤさんは大人だし、私と話なんて合わないでしょ』と勇気を出して聞いてみたけれど、アヤからは『あなたは大人だよ。頭も良いし、話してて楽しいよ』というシンプルな返信だ。なぜかもっと隠していることがあるのではないかと言う気がして、それでもこれ以上は踏み込めなかった。アヤにしつこくして嫌われたくはない。せめて会いたいと思うようになった。アヤと知り合ってから半年あまり、真衣は三年生になり、高校最後の夏休みが目の前に迫る。
 緊張する指で『一回だけでもいいから、会いたい。もうすぐ夏休みだから』とメールすると、『会っても、私なんか面白くないよ』と返信が来る。真衣は足りない語彙をかき集めて、『アヤさんと会うだけで楽しいもん。お願い』とメッセージを送った。もっと上手に誘えたら良かったのだろうけど、経験の乏しい真衣には難しい。お互いに本名も顔も知らないし、アヤが本当に女性なのかどうかわからないが、真衣はすっかりアヤを慕っていた。
『じゃあ、海に行こうよ。夏だし、鎌倉に行きたいな』
 西東京の郊外に住んでいる真衣にとって鎌倉は少し遠くにある場所だったが、アヤが行きたいと言うなら喜んで行きたい。すぐに返信をしたらどれだけ必死なのかと笑われそうだと、数十分後に了承のメールを送る。本名も住んでいる場所すら知らない間柄なのにと考えて、だったら知っていけばいいのだと思った。
『あの、リアルで会うし、本名教えてください。私は高野真衣です』
 名前を聞いて、それから顔写真を交換して、アヤのかたちを確かにすればいいのだ。
『真面目だなあ、いいよ。佐伯彩子です』 
 彩子、とつぶやいて真衣はケータイの光るディスプレイを見つめた。彩る子と書くのか、と妙に納得する。彩子は真衣に新しい彩りを与えてくれたからだ。
 
 友達と鎌倉へ遊びに行くと母親に言うと、なんの疑いもなく「受験勉強の息抜きも必要だよね」と送り出してくれた。真衣を精神的に縛ることはするけれど、行動まで制限しないので真衣は母親に対して大きな不信感を抱くことができない。愛されているし大切にされているのに、なにかおかしいのが真衣と母親の関係だった。
 真衣は雑誌で覚えた拙いメイクをし、緊張しながら電車に乗る。十三時に鎌倉駅の改札で待ち合わせ、彩子は白いカットソーを着てジーンズをはいているらしい。新宿から湘南新宿ラインに乗り換える時点から、真衣は前髪をいじってばかりいた。いちばん好きな青いノースリーブのワンピースを着たけれど、子どもっぽいと思われないだろうか。
 夏休みシーズン土曜日の鎌倉駅はすごい人混みで、真衣はキョロキョロとしながら彩子を探す。『今、鎌倉駅の改札近くです。青いワンピを着てます』とメールすると、しばらくして後ろから声がした。
「あの、彩子だよ」
 慌てて振り向くと、落ち着いた茶色に髪を染めたボブカットの女性が微笑んでいる。
「……はじめまして、真衣です」
「本当に真衣ちゃんなんだね。背、高いねえ」
 写メを交換して顔は知っていたけれど、実際の彩子は想像よりも小柄で華奢だった。色黒なのが悩みだと言っていたが、健康的な日焼けに思える。笑顔で目のシワがくしゃっとなって、黒目が輝いていた。思っていたよりずっと大人で、きれいな人だ。彩子の美しく引かれたアイラインや整った眉を見つめて、真衣はおのれの未熟さを恥じた。それに彩子の垢抜けたボブカットと比べて、真衣のポニーテールはいかにも学生っぽい。もじもじと唇を噛む真衣に彩子はさりげなく「夏っぽくてかわいいね、似合ってる」と言ってくれた。
「彩子さんは、きれい」
「ありがとね。お姉さんは給料が出たばっかだし、あとでなんでも奢ってあげよう」
 はにかむ彩子の視線が外へ向き、細い腕がつっと伸びる。ごくさりげなく真衣の肩に触れると、「江ノ島に行こう、けっこう楽しいよ。こっから江ノ電に乗って行くの」と言った。触れられている肩が妙に熱く感じ、真衣はどきりとする。前を歩く彩子を見つめながら、これは一目惚れなのかと考えた。もとから彩子を慕っていてなんでも話せる人だと思っていたけれど、姿を知ってしまった瞬間からずっと隣にいたいと言う感情が湧き上がって来たのだ。彩子の体温が感じられるぐらいの距離で、たまに触れて、目をつむってもわかるくらいにそばにいたい。誰かに触れたいと言う気持ちがはじめてで、真衣の心臓はざわつく。夏の日差しも相まってのぼせながら彩子について行くが、江ノ島電鉄のちんまりとした佇まいの路面電車を見たら急に楽しくなってしまった。
「かわいい!」
 濃い緑色のレトロな江ノ電が非日常を感じさせ、これから違う場所に自分たちを連れて行ってくれようとしている。
「真衣ちゃんがかわいいよ」
 黒目がちに微笑む彩子を見て、今度はしゅんとする。この通り真衣は子どもだけれど、彩子にはあまり子ども扱いされたくない。自分でも制御できない感情の波が激しくて、真衣は大いに戸惑った。ただひたすら彩子に嫌われたくない、好かれたいと思うのだ。それは母親に嫌われたくないと言う怯えのような感情とは違う、彩子の心に入り込みたいという赤い色をした欲望だった。我慢をして引っ込むよりも、より近付いて一部になりたい。
 車窓から見える海は単純に真衣を高揚させたが、彩子の存在が真衣の体温をずっと高くさせていた。
 やがて江ノ島駅に到着したことを告げるアナウンスが聞こえると、真衣は「着いたね」と今度は自分が前を歩こうとした。江ノ島へなんか行ったことはないけれど、彩子をエスコートしたくなったのだ。どうせ観光地でみんな同じ場所に行くのだろうし、人の流れに着いて行けばよいだろう。少しでも彩子に必要とされたかった。
「みんなが歩く方向に行けばいいよね?」
「うん、そうなんだけどさ。ゆっくり行こうよ」
 彩子は腕時計をちらっと眺めて、空を見上げた。
「時間あるしさ、食べ歩きしてもいいじゃん。さっき言ったけど、なんでも奢ってあげる。そんなに高くないし、気にしないで。真衣ちゃんの見たいお店に入ってもいいし」
 真衣はふたたびしゅんとして、やっぱり子どもと思われているのかと焦る。否定をされているわけではないとわかっているのに。小さく頷いて、すごすごと彩子の後ろへまわった。埋められない年齢差、成人と未成年、社会人と学生。優しく促す彩子の真衣への態度は何も間違っていない。彩子の耳元で揺れるゴールドのピアスと、真衣が慣れない手付きでつけた真鍮のイヤリングには決定的な差があるのだ。明日目覚めていきなり二十歳になればいいのにと考えながら、真衣のわがままを聞きたがる彩子に辛抱ができなかった。
「彩子さんは何がしたいの? 私、彩子さんが見たいものだって見たい……」
 彩子に望まれたい、彩子の願いを叶えたい。この態度がもういっそ子どもなのだけれど、真衣は真剣だった。真衣の様子を彩子はきょとんとして見つめ、嬉しそうに首をかしげる。
「メールしててずっと思ってたけど、ほんとに良い子だね。ラッキーって便乗しないなんて。そっか、私たち友達だもんね。わかった、じゃあちょっと海を見よう」
 友達と言われたことには傷ついたが、真衣は今度こそ大きく頷いた。
 江ノ島に行く道すがらには海岸があり、海面は快晴の日差しを受けて眩しいくらいに輝いている。釣りをしていたりサーフボードを抱えた人たちを物珍しく通り過ぎながら、真衣は彩子と波打ち際まで歩いた。
「おお、いいねえ、海!」
 はしゃいだ声の彩子が嬉しそうに波へと近付く。真衣にとっても海へ訪れるのは久しぶりで、おっかなびっくり海水に触れた。温い海水はベタベタとして、不思議な感じだ。真衣が控えめに海へ対峙している一方で、彩子はスキニージーンズをたくしあげ、大胆に波へと入っていく。さっきまでの優しげな微笑みではない、無邪気な笑顔だった。 
「彩子さん、そんなに濡れて大丈夫なの?」
 正直な気持ちを言えば楽しそうな彩子を眺めていたかったが、心配になってしまったのだ。真衣は彩子のよく日に焼けてしなやかな腕を掴む。触れた肌が海風を受けて湿っていた。
「平気だよ、泳ぐわけじゃないし。タオル持って来たもん」
「そのサンダル、履いて帰るんだよ」
「じゃあ、真衣ちゃんがおぶってよ」
 鼻歌のような気軽さで、彩子は難題を真衣にふっかけた。長い梅雨の終わりを告げる夏の日差しと、彩子の美しい姿が重なって真衣は息を呑む。彩子の願いは叶えたいし軽そうだから背負えると思うと、もうどうでも良くなってしまった。
「あのさ旦那のやつがさ、これ買ってくれたんだけど、微妙に気に入ってないの!」
 ケラケラ笑い声を立てて、彩子は繊細な造りのサンダルを脱ぐと、海に向かって放り投げた。ぼちゃんと音をさせながら、サンダルは波に沈んでいく。
「こっちは裸で生まれて来たんだよ! もったいぶって買って来やがって!」
 満足そうに彩子は真衣を見やり、「すっきりした!」と言った。従順な人生を歩んで来た真衣には、この真っ直ぐな彩子がとても羨ましく思える。たとえ気に入っていなくても、せっかく買ってもらったものだから大切にするべきなんだろうけれど、海に投げて罵倒するくらいの大胆さが真衣にも欲しかった。
「なにも投げなくていいじゃん!」
「ちゃんと回収するって、大丈夫だよ」
 波打ち際をザブザブと歩いて海へ入っていく彩子に、真衣はなんだかしっくりと来たのだ。もともと裸で生まれたと言う彩子は、きっと海から生まれたのだろうと思う。既婚者のくせにレズビアンを名乗って、未成年とこっそり逢うような大人なんて悪いに決まってるけれど、なにも悪くない気がした。こんなに美しく純粋な人が、悪いことなんてあるだろうか。彩子は真衣がずっと欲している自由の中で泳いでいる。魚と言うよりも、南の海で楽しげに泳ぐフンボルトペンギンのようだ。こじんまりと小さくて、黒目がちで。
 高校の英語教師が群れの中で最初に海へ飛び込むペンギンを、ファーストペンギンと呼ぶと教えてくれた。ペンギンにはボスがいないからはじめに行動を起こしたペンギンに従う習性があり、転じて真っ先に行動を起こした人を称える意味で使うとか。彩子は真衣のファーストペンギンだ。自分にはできないことをして、導くような言葉をくれる。いつか彩子の泳ぐ海に真衣も飛び込みたかった。
 サンダルを回収して砂浜へ戻ってきた彩子は「やっぱりやめときゃよかった」と苦笑しながらまたサンダルをはく。腕時計をちらっと確認して、真衣へ「じゃあ、行こっか」と言った。それからふたりで江ノ島を巡ったが、真衣は変に意識してしまって何も覚えていない。気がついたら夕方の十六時で、そろそろ帰宅せねばならない時間になっていた。
 もう帰ろうというそぶりの彩子へ、真衣は思わず声をかける。
「彩子さんが好き」
 思わず口が滑ってしまったが、遅かれ早かれ告げなければ真衣の気持ちは治まらなかったのだ。心臓が高鳴り全身に流れる血のめぐりを感じるほど緊張してしまったが、なんの後悔もなかった。
 彩子は一瞬だけ驚いたそぶりを見せ、すぐにまたあの優しげな微笑みに戻る。
「私なんてやめておきな。嘘をついてたんだから」
 眉根をしかめる真衣に後ろめたい目線を寄越した彩子は、バッグから財布を取り出すと保険証を真衣へ見せた。
「本当の年齢は二十七歳。結婚してるのも旦那が不倫したのも本当なんだけどね。あなたにメールしたのは生きていたら、あなたと同じ年齢の妹がいたから。私が小さい頃に事故で亡くなってね……あの子と同い年の女の子と話してみたくなったの。ね、ろくでもないでしょ?」
 差し出された保険証をまじまじと見つめるが、たしかに生年月日が二十二歳では計算が合わない。けれど真衣は不信感を抱くよりも、十歳も年齢が上とは思えない彩子の若々しさに惚れ惚れしてしまった。騙されたのだろうけど、不思議とショックではない。恋は盲目とはよく言ったものだった。
「それでもいい……だって、きっかけはどうであれ、私は彩子さんに出会えて嬉しかった。年齢も、あんまり気にならない」
 てっきり真衣から拒絶されると思っていた彩子は今度こそ目を見開いて、困ったように目を細める。
「眩しいね、あなたって。あの子も女子高生だったら、こんなにキラキラしていたのかなあ」
 罪悪感からなのか目元がうっすらと赤くなっている彩子の両腕を真衣は乱暴に掴んだ。
「あたし、妹さんじゃない!」
 年齢を偽られたことなど、真衣にはどうでもよかった。それよりも誰かの代わりとして認識されることの方がずっと嫌だ。
「妹さんの代わりにはなれない。私は私だし、彩子さんみたいに良いことだって言えない……でも、私はあなたが好きなんだもん。その気持ちまで否定しないで」
 とうとう彩子は小さく「ほんと、ごめん」とつぶやいた。真衣は唇を噛んで手を引っ込める。「もう帰ろう」と彩子が言うままに、駅に向かってゆっくり歩く。しばらくお互いに無口だったが、不意に彩子が「あのね」と真衣へ話しかけた。
「妹が死んで、母は頭が狂っちゃったみたいでさ。私の首を絞めて、無理心中しようとしたんだって。私は覚えていなくて、叔母から聞いたの。それから父と母は離婚して、私は父方に引き取られた。母がどうしているのかわからないの。父はよく笑う人だったのに、あれからずっと能面みたいに過ごしてたな。私が結婚したのも、父に少しでも喜んで欲しかったからなのかも」
 彩子の口から聞く過去を真衣は注意深く聞く。自分の家庭環境も複雑だが、彩子もなかなか過酷な環境で育ったのだと知ると、同じものを共有できるという不思議な気持ちが生まれた。
「お母さんに会いたい?」
 尋ねた真衣に彩子は「どうだろうね」と言う。
「今さら会っても、私を娘だと思ってくれるかなあ。あの子が生きていたら、私も両親も人生が狂わずに済んでいたかもって、やっぱり考えちゃうけど……真衣ちゃんはご両親が揃っているのに機能不全なわけでしょ。不思議よね、家族って」
 江ノ電に揺られながらぽつぽつと身の上を話す彩子の横顔をじっと見つめ、真衣はやはり騙された怒りなど湧いてこないと思った。真衣が彩子に癒やしを求めたように、彩子なりに傷を癒そうとしただけだ。その相手になれて、むしろ喜びだとさえ考えた。鎌倉駅に着くと彩子は「私、実は車で来たんだ。神奈川に住んでるの」とバッグを叩く。車の鍵を持っているという仕草だろう。
「そっか」
「今日は楽しかった。いろいろ、ごめんね。ちゃんと返事、考えるから」
「ふってもいい。でも、これからも友達でいてほしい」
 彩子は弱ったように肩をすくめて、真衣のほつれた髪の毛をそっと耳にかける。
「真衣ちゃんはすごくきれいな女の人になるよ。だから私なんてもったいない」
 言い返そうとした真衣から彩子は距離を取ると、手を振って小走りで去って行ってしまった。真衣は呆然と立ち尽くして、急に涙がこみ上げるのを感じる。なんてずるいんだろう、と少しだけ怒りを感じた。それでも耳にかけてもらった髪の毛が、尊いものに思えてしまうのだ。
 
 自宅のあるマンションへ帰宅する頃にはすっかり日は落ちていて、真衣はどっと疲れながら玄関にたどり着く。ただいまと声を張り上げると、母親の「嘘よ!」という絶叫が聞こえたので何事かとリビングへ向かった。ドアを開けると、顔面蒼白の母親が電話の受話器を握りしめている。父親は苦虫を噛み潰したような表情だ。母親は動揺しながらも電話口の誰かと事務的な会話を続けていた。「はい」だとか「わかりません」と繰り返し、電話が終わるといきなり真衣を抱きしめる。
「落ち着いて聞いてね、聡が児童買春で捕まったの……まだ十六歳の女の子とセックスして、お金を渡してたって」
 電話越しの相手は警察だったのかと理解し、叔父が援助交際をして逮捕という事実に動揺するだろうと言う母親の配慮を、どこか冷めた風に真衣は受け止めた。まったく驚きもしなければ、いつかこうなるだろうと思っていたからだ。
「そう、だろうね」
 母親は静かに答える真衣から離れると、得体の知れないものでも見るように自分の娘を凝視して、はっと気付いたように詰め寄る。
「ねえ、真衣ちゃん。正直に話して、聡から嫌なことされた?」
 まるで大層な悲劇がはじまったように接してくる母親の姿が滑稽に思えた。真衣は真衣なりにシグナルを出していたのだから。
「されたよ。レイプまではされなかったけど、ずっと言ってたじゃん」
 叔父から裸や着替えを見られ続け、すっかり男性からの性的な視線がトラウマになっていた。とても傷ついていたのに大事にしないで「家族なんだから恥ずかしくない」と真衣に言い続けていたのは他ならぬ母親ではないか。
「ママはね、嫌な予感がしていたの! まさか本当に当たってしまうなんて!」
 その言葉を聞いて、真衣は覚悟をしていたものの絶句した。ひどい、と口にしたくてもショックを受けて何も言葉が出ない。母親は気付いていて、真衣を叔父から遠ざけようとしてくれなかった。急にボロボロと涙がこぼれ、真衣は久しぶりに大声を荒げる。
「私はずっとつらかった! ずっと嫌だったし、あいつが気持ち悪かった! どんなに傷ついたって言っても気がついてくれなかったのはお母さんとお父さんだよ。あいつが私にしたことを知ってショックを受ける権利なんて、二人にはない」
 普段は感情をあらわにすることがない真衣の態度に両親は驚いたそぶりを見せ、母親はやっと真衣に対しての配慮が足りていなかったことに気が付いたようだ。声を震わせて、母親は泣いていた。
「ママたちはどうしたらこの罪を償えるの?」
「償おうなんてしなくていいよ。でも私のことを放っておいて。私の傷は私だけのものだから、これ以上関わらないで」
 この空気に耐えきれなくなり、真衣は外へ行こうと玄関へきびすを返す。どうしても冷静になれなかったし、両親に対してはっきりと憎しみが生まれていた。バカやろう、ふざけんな、と叫びたいが真衣は最後の最後で良い子であろうとしてしまうのだ。そんな自分にも嫌気が差す。
「ちょっと散歩してくる。二人には感謝してるし、高校はちゃんと卒業するから」
 憎しみを抱いても、憎みきれない。ちゃんと愛されていることをわかっている。だから余計につらい。玄関から逃げるように出て、真衣は大声を上げて泣きたい気持ちを抑えていた。ケータイを取り出し、耐えきれなくなって彩子に電話する。しばらく呼び出し音が鳴り、彩子がもしもしと電話に出た。真衣は事情を話すのも忘れるほど興奮して一気にまくしたてる。
「あいつ、女の子と援交して捕まった。お母さんもお父さんも、白々しくて大嫌い!」
 支離滅裂な物言いだったが、彩子は黙って聞いてくれた。真衣は多少の落ち着きを取り戻す。
「……早く高校を卒業したい。彩子さんと一緒に住みたい」
「またこの子は。一緒に住むって、けっこうめんどくさいよ」
「彩子さんとずっと一緒にいたい。それに、今すぐ会いたい」
 なんだそりゃ、と電話越しで苦笑する彩子の声が心地よかった。
「おうち、西東京市だっけ。カーナビで調べたら、うちから五〇分ぐらいだし、行ってあげようか?」
「え、いいの?」
「いいよ。ひとりぼっちだと涙が止まらないでしょ、余計なことばっかり考えて」
「……ありがとう」
「ご両親には友達の家に行くとか言っときなね」
「うん、そうする」
 電話を切ると悲しみよりも彩子とまた会える気持ちの方が勝っていることに気付いて、真衣はおのれの都合の良さに笑う。しばらく自宅があるマンションのエントランスで涙が乾くのを待ち、真衣は待ち合わせの時間まで駅前のファミレスで待つことにした。いちばん仲の良い友人の家で話を聞いてもらっていると嘘のメールを母親へ送り、真衣は「けっこう悪いことをしているな」とほくそ笑む。幾重にもなった良い子の殻が割れていく音がはっきりと聞こえた。守られているペンギンの雛から知らない海へ飛び込む準備ができた大人のペンギンになるための、福音のような音だ。
 
 真衣の住む最寄りの駅に彩子が着いたのは九時ごろで、明るいピンク色の軽自動車に乗って「誘拐犯が到着したよ」とおどけた姿に安心してしまった。真衣はお礼を言って助手席へ乗り込み、小さくため息をつく。
「ほんと嬉しい……ひとりつらかった」
「わかるよ。このままドライブして、カフェでケーキを食べよう。今度こそ奢ってあげる」
「いきなり外出して、旦那さんは大丈夫なの?」
「ああ、平気平気。週末は不倫相手の家に行ってる。開き直ってんのよね」
「キモッ! 男なんて滅びたらいいんだよ!」
 憤慨する真衣に彩子は「そうだ!」と同調した。しばらく彩子の運転に身を任せながら、真衣は流れる風景を見つめ続ける。泣きはらした目が重たいが、心はどこか清々しかった。
「ねえ、彩子さん。ちょっと車を停めてほしいな」
「いいけど……あそこのコンビニでいっか」
 真衣はコンビニの駐車場に車を停めた彩子の肩に自分の首を乗せた。
「私ね、やっぱり彩子さんが好き」
 無言のままでいる彩子の体温を感じながら、真衣はぽつぽつと喋りだす。
「妹さんの代わりにはなれないけど、彩子さんの悲しみがわかるのは私しかいないと思う。私に触れたいって言って。私を見て、ちゃんと触れてよ。どこにも行かないし、絶対に死なない。あとクソ旦那みたいに浮気もしないよ」
 人生に悲観して死にたいと思っていた真衣は、もうどこにもいない。ここから消えたいと願うだけだったけれど、抜け出すための術を探す一歩を踏み出そうとしている。彩子に恋をして、これからの日々をもっと良くしたいと思えるようになった。彩子にも同じ気持ちを抱いてほしい。
「誰かに期待して寄りかかるってね、すごくこわいんだから」
「あなたなんて軽い。すごく軽い、ねえ、好きなんだってば」
 必死ですがる真衣を彩子は拒絶しなかった。ただ、どうしていいかわからず戸惑っているように思える。真衣はシートベルトを外し彩子の肩口に額を押し付けて、懇願するように抱きしめた。
 ずるい手段を使ってでも、彩子を繋ぎ止めておきたい。だって先にずるかったのは彩子だ。
「……軽いかあ、それは困ったなあ」
 震える声で答える彩子の頬に軽くキスをして、真衣はぎゅっと目をつむる。困ってほしい。どうか困ってしまって、それで真衣が可愛そうになって選択肢をなくしてくれと思った。
「ねえ、離婚して」
「だから、難しいんだよ……いろいろあるんだから」
 絶対に離婚して、と真衣は強く言い放つ。
「離婚してくれないと、死ぬかも」とつぶやくと、彩子は「人聞きの悪い子だね」とそっと抱きしめ返してくれた。そして突然にあははっと笑うと、「高校の卒業式、私が家族として行ってあげる。彼女ですって!」と言い出す。
 真衣は青ざめる家族や爆笑する友達、少しかしこまった服装をした彩子の美しさを想像して小さく吹き出した。
 勇気を出して飛び込んだ彩子の泳ぐ海は温くて、この夜に似た穏やかなところだと思う。
「ねえ、プリクラ撮ろう。ケータイに貼ってね、お守りするの」
 彩子は「恥ずかしいよ、そんなの」と小さく言いながら、ゲーセンどこ?と真衣にたずねた。


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