過去の暗い話 続き編②
おはようございます。随分時間が経ってしまいましたが続きを書こうと思います。
チックが出だした小学5年生以降も、わたしは良い子として成長します。
中学、高校と。多分反抗期なんてものもなかったんじゃないかな〜。
そして前の記事でも書いたように、「九州大学以外を受けてくれ」男のために、アンド実家を出たいという願望も相まって、他県の大学を受験します。
このとき(受験の時)母を連れてきたのが悪かった。
彼女、わたしが試験を受けてる間に、勝手に部屋を探して契約してきてまして。しかもまた、創価学会の知り合いのツテで紹介された物件を、と・・・。
も〜!!勝手なことすんなよ〜!!!家とか自分で見て決めたいんじゃ〜!!!なに勝手に宗教色まで出してんねーん!!!と怒り爆発でしたが、そこまでクッレームを言ったことはございません。
そして19歳から神戸での一人暮らしが始まります。
それはもう、絵に書いたようなキッチリした真面目な学生でした。
1限に間に合うように起き、朝ごはんを作って食べ、お弁当を持参し、学校が終わったら即下山し(神戸大生は登校することを山に登ると言い帰ることを下山すると言います)、そこからは18時からの焼き鳥バイト、という日々でした。
2月になり、試験も終わったということで、初めての海外旅行に行きます。行き先は韓国でした。3泊4日で29800円とかいうめっちゃリーズナブルなお値段だったと記憶しています。(すごいよ大学生協!!)
そして楽しんで帰ってきたわけですが、2月26日20時過ぎにそれは起きます。
家の固定電話が鳴ったのは21時半ころでした。電話は父から。
「驚かずに聞けよ、実はな・・・。お兄ちゃんが亡くなった。」
わたしはパニックにならずにいられませんでした。
亡くなったのは2番めの兄、私と母親が同じ兄のことです。
さらに聞くと家が燃えたとのこと。実家が火事??
ますますパニックです。その後のことはあまり覚えていません。
翌日からホテルのバイトが入っていたけど、当時付き合っていたホテルのバイトの先輩でもある彼氏が各所連絡してくれていたのは後から知りました。
翌日、あさイチで新幹線に乗って博多へ向かいます。
学会のおばちゃんが家の最寄駅まで迎えに来てくれていました。
亡くなった兄が葬儀場へ運ばれる前に一瞬家に帰ってきてたとこに立ち会えたのはラッキーでした。
で、葬儀うんぬんあるんですが、まず母が創価学会の学会葬じゃないと嫌だとゴネ出し、学会葬になったんですが、親戚からの視線が痛い・・・。
葬儀では、ことあるごとに「お母さんを支えてあげてね」と言われ、、、。
そんなこんなが傷口になっております。
そしてお骨を寺に預けることも母が拒否したため、兄の友人がしょっちゅう家にお参りに来ることになり・・・。ありがたかったですが、正直毎月とか20人以上で来られるとかは大変でした・・・。
そんな感じです。
続きも書けたら書きます。
なな