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ドア、爆弾、自傷

 この世に救いはある。私はそれだけを頼りに、生きてきた。

 幼少期の探検とは違う。野山を分け入って進んだ先には、じっとりと暗い洞穴があった。人を寄せ付けない、静けさの中に後ろめたさを孕んだ空気。丁度良い、と私は思った。一人きりになれる場所を探していたのだ。誰からも何も言われない、人間の気配がない場所を。
 湿った空気の中、慎重に足を進める。暗さに目が慣れた頃には、案外にも奥行きがあることが分かってきた。足下からは微かな金属音。よく見るとそれはガラス片だった。私は少なからず落胆した。この場所には、誰かいたのだ。ともあれ、今は無人であることはしんとした気配から明らかであったため、ここでいいや、と思い直すことにした。
 更に進み、入り口からの光がほとんど届かなくなった頃、最奥に到達した。ポケットからライターを取り出し、灯す。
 小さな空間だった。点在するガラス片。随分古い布きれ。衣服だろうか。泥で何色かさえ分からない。それを足でどけると、硬いものに触れた感覚があった。何だろう、とつま先で探り、火を翳す。黒い金属塊。見覚えがあるような、と手で泥を落とす。更に火を近づけると、その影が浮かび上がった。
 それは、手榴弾だった。

 持って帰りはしなかった。元通りに古びた衣の下に隠し、その場所を記憶した。改めて調べてみると、あの地域は旧日本軍の防空壕が散見されるらしく、未だ行政の調査が完了していないところも多く、地元住民もその不気味さから余り近寄らない場所らしい。
 好都合だった。爆弾。自分だけが近づく場所に、まだ誰にも知られていない爆弾がある。その事実は一種の平穏をもたらした。その危険性からは全く逆説的ではあるが、いつでも終われるのだ、と思うと、この日々も何とか乗り越えていけそうに思えてくる。
 而してあの手榴弾は、私のお守りになった。

 その数日間は、とにかく最悪だった。何か具体的な出来事があったのかと言われれば、そうでもない。仕事が上手くいかずに上司にまたため息をつかれたり、同僚のPCの裏側から漏れ伝わる嘲笑であったり、夕食のカップ麺をカーペットにこぼしてしまったこととであったり、電気コードに引っかかって転びそうになったことであったり。誰かを誘って憂さ晴らしに飲みにでも行こうかと思いはしたが、こんな次第では碌なことにならない。仕方なく半分以下になった酒瓶を煽る。禁煙にも失敗した。眠いのに寝たくない。寝たいのに眠れない。とにかく嫌な気持ちがぐるぐると頭の中を巡り、世界に対して自分を愛してくれと泣き叫びたいような、だがそれすらも億劫で、ふてくされて背を向けるような、全くの気まぐれで自傷したくなるような、そんな気分が続いていた。
 だからその朝、それは必然だったのかも知れない。
 嫌々ながら仕事に行こうと靴を履き、不快な金属製の軋みを響かせるドアをこじ開けたその先には、雲一つない晴天。それは何処までも広がる空だ。吸い込まれそうなほどに。
 途端に、私の中の感情が千切れた。最悪の気分から断絶され、突如身軽になった自分自身に驚く。まるで世界からポンと背中を押されたような。
 そうだ。私は自由だ。私は何故こんなところにいるのだろう。
 こうしてはいられなかった。私はいてもたってもいられず、不思議な高揚感に支配され、足は自然にあそこに向かった。
 あの場所。
 そう、私のお守りの場所に。

 そのコントラストは鮮やかだった。気持ちよいほどの晴れ間にぽっかりと口を開く、内臓を緩やかに締め付けられるような気持ち悪さ。笑えてくるほどに、おあつらえ向きだ。
 何度も反芻した記憶どおりに、足取りは確りと、灯したライターを頼りに、ずんずんと奥に進む。
 最奥の間で、隠していたお守りと対面する。
 丁重に両手で持ち上げ、まじまじとそれを眺める。
 美しい形をしている。人を殺傷することにのみ用いられる形だ。機能美の極地だろう。自分もいつかこうなりたいものだ。いや、こうなりたかった、の方が正しいか。
 私は胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。
 ぼんやりとした灯りに、肺から吐き出された苦みが漂った。
 良かった。
 これを見つけることが出来て、私は本当に幸運だった。
 ありがとう。私と出会ってくれて。
 剥き出しの土壁に背を預け、足を投げ出す。
 こんなゆったりとした気分になったのはいつぶりだろう。自宅に置き去りにしたスマートフォンには今頃、職場から山ほどの着信が届いているだろう。それを想像すると、滑稽さすら覚えた。
 良い日だ。今日は、良い日だ。
 丸ピンに指をかける。
 私は煙草の火を、消した。

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