見出し画像

日記 2024.4.10(水) くるしい、と素直に自分に言うことの効果。

大人になるにつれまわりの声や表情、行動に敏感になるようになってきた。子どもの頃はそんなことあんまり気にしていなかった。というか好きなことをしたり探検したり冒険することで忙しかったから周りを気にするような時間はなかった。
それがいつしか周りへの対応に追われるようになり自分への対応が後回しになってきた。いつのまにか子どもの頃と真逆の生活になってしまった。それが大人になることだと言われればそうなのかもしれないけれど。争わなくても済むならば、わたしが引けば効率よくうまく回ると思って自分をどんどん抑えて見せないようにして人に合わせてきた。体力があったからそれでも何とかこれまではやってこられた。

無職になって何にもなくなって、いやでも自分と向き合うようになった。毎日毎日暇だから考える時間はたっぷりある。わたしの心と体はこのままの生き方はくるしいよと訴えていることにようやく気づきはじめた。だれかの声にばかり耳を傾けて、誰かの声に合わせて動き、自分の声にずっと我慢をさせていた。文句もなにも言わず休みなく働くわたしの心と体を労り、ほめてあげたことなんて一度もなかった。

坂口さんは毎日続けることを自らの姿を見せて教えてくれた。ただただ好きなこと、やってみたかったことを続けてみる。変わりたい、強く思ったわたしはまずは素敵だなと思ったことを真似してみることにした。せっかく無職になったのだからやってみたかったこと全部挑戦したいという気持ちもあったから興味のあることは片っ端から手をつけてみた。やりたくないことは続かずにすぐに飽きてくるから分かりやすい。楽しくてやみつきになって毎日やらざる終えなくなってきたこと。残ったものは日記を書くこと、絵を描くことだった。絵を描いて日記を書いて、はじめて自分の気持ちを、素直な声を知ることができた。自分から出てきたものに目を向けて毎日無能さを自覚する。絵を描くこと、日記を書くことはいまの自分の体と心を見える化する作業だったのだと思う。見えてきた自分はイメージしていた自分とはまったく違っている。イメージと現実のずれを自覚していく。無能な自分を否定しない。下手だなあと素直に受け止める。うまくかこうとしないで続けることに集中する。そんなふうにやってみた。
近ごろは好きなことをして心の底から楽しんでいる瞬間が確かにある。そんなわたしに向かっていいねと言えるようにもなってきた。いつのまにか自然と周りの声は気にならなくなってきた。子どもの頃のように一番安全で安心なわたしの世界に戻ることができているのかもしれない。わたしの心と体がすごく喜んでくれていることを感じることができるようになってきた。

みんな、わたしがなんにも仕事をしていなくて、貯金を崩しながら毎日過ごしているのにしあわせだと思っているなんて思っていないのが面白い。わたしがしあわせだと言ってもみんな首を傾げてそんなはずないと思うだろう。強がっているだけだと思うのだろう。それはそうだ、だってわたしと同じ経験をした友だちは誰もいないのだ。理解されたいとは思わないからしあわせだとは言っても首を傾げる人に向かって反論したりはしない。
自分を誰かを比べなくなってきた。人は人。かつてはそう思い込もうと呪文のようにかけてきたこのことばも、いまは実感と説得力を持って言えている気がする。冷静に周りの人と付き合えるようになってきたと感じる。人をコントロールすることなんてできないのは大前提だと思える。
わたし素直になってきたなぁと思う。こんなふうに思えるようになったのは、自分の中に安心をつくってこられているからなのだろう。

今日はみさこの会社のサンプル撮影の見学に行った。みさこはみさこの仕事をわたしに見せて教えてくれる。撮影の傍でみさこといろんな話をした。まだ話終わらずに撮影の立ち会いを終えてからもお茶しながらしゃべって帰った。わたしのことを心配してくれながら、みさこもまた悩んでいる。今日はまいちゃんも珍しく悩みを教えてくれた。みんなそれぞれに悩みながら生活しているのだなと思った。

2人の仕事の話を聞きながら、やっぱりわたしは会社に所属して働くのはもうできないかもしれないなと思った。自分でどうにか仕事をしていくしかない。何がしたいか、何をしていくかがはっきりと見えてはいないけれど、ひとりで仕事をしていく。どこにもない仕事かもしれないけれどぼんやりとイメージが湧いてきた。まだしばらく無職は続けるしかなさそうだ。職業訓練を受けてみようかなと思うようになってきて見学会に申し込んだ。

今日は友だちに素直な気持ちで話すことができた気がして満足している。わたしはいまただ下手な絵と下手な日記を毎日かき続けているだけの生活をしていると素直に伝える。自分に素直であることがこんなに清々しく気持ちのいいことなのだと少し分かったような気がした。

これまで自分はもっとできるはずなんて根拠のない自信を持ちながらも不安と、不満を抱えてそれでもなんにもせずに過ごしてきた。何にもしていないのにずっと焦っていた。イメージだけは一丁前にあった。プライドが高く誰にも素直になれず、自分の無能さに蓋をして見ようとしなかった。見ないようにすればするほど理想と現実はどんどんかけ離れていき、勘違いのまま生きてきた。労働しまくって、忙しいだけの日々を充実していると思い込んで過ごしてきた。無職になって立ち止まって初めて、自分がしあわせでないことに気づいたのだった。

気づくのに遅いなんてことはないのだと思う。経験していなければいつまで経っても、いくつになっても分からないことは分からないまま。経験して失敗してひとつひとつ自分で気づいていく。時間がかかってもこの方法しかないのかもしれない。わたしはすぐに調子に乗りそうになるから何度か失敗しないとしっかり分からない。経験と失敗を繰り返しながら進むしかできないのだなと思う。

今日もよく自分と対話した。絵を描いて、日記を書いて、人としゃべって、考えて。これ全部自分との対話なのかなと思う。
自己否定を続けてもしあわせになれないことは十分に分かってきた。悩んでいる自分、くるしいと言っている心と体を否定しないで全部認めてあげる。自分には素直な自分を見せながら、周りの声には上品な態度で接していけばいい。相談はしない。周りの声は周りの声として聞く。人をコントロールすることなんてできないのだから誰かに意見したり反論することもできないのだなと思う。

無能さや悩みやくるしみをみてみないふりしていた時よりも、くるしいと自分に素直に言えるようになったいまのほうが悩んでしんどくてもしあわせだと感じていることに気づいてきている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?