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両親 3.被爆

 原爆の様子は、両親が亡くなる前に、私と次男に語っており、CDRに保管している。主として母が語っているが、時々母に促されて父も、口を出している。

 当時、父は某重工業の広島製造所勤務、一家(父、母、姉)は広島市の中心部に住んでいた。父は偶々名古屋に長期出張して、空襲が激しかったそうで、広島に戻った時、市の中心部は危険だと、市外地の一件家を強引に借りて直ぐに引っ越した。原爆の1週間前だったとか。強引な引っ越しが一家を救い、2年後に私が誕生した。

 原爆当日、父はいつもの如く、会社に出勤していた。母は何かの用で、外に出ており、その瞬間、背中が熱く、火傷したと思ったとか。市中心部を見ると、きのこ状の雲がもくもくと大きくなり、やがて頭上を覆い、雨が降ってきた。坂の上から市内方面を見ると、全身火傷してみるに堪えない人々がぞろぞろと歩いていたとか。急ぎ、家に戻ったところ、窓ガラスは全て粉々だったが、幸い姉は奥の部屋にいたので、無事だった。

 父が勤務していた工場は、市の中心から離れ、無事だったが、直ぐに、市中心部に行き、救助活動をした。いたるところに全身火傷で半死状態の人がいて、声をかけて励ますくらいしか出来なかったとのこと。その他いろいろ聞いたが、内容は、あまりに悲惨で聞くに堪えない、

 母は、父の消息が分らなく、不安だったが何もできない。夜、無事に戻ってきた時は、思わずその場に座り込んだとの事。数日後、終戦となる。後日原子爆弾だったと分かったが、その辺の感想は語っていない。

 相当な被爆量だったはずだが、不思議なことに、両親も姉も、これといった後遺症はない。父は60歳過ぎに、被爆者の認定を申請して被爆者手帳を交付された。それまで申請しなかったのは、世の風評被害を気にしてのことだが、姉も私も無事に結婚し、孫も出来たので、もういいだろう、と言ったところらしい。

  以降、両親と姉の 医療費は全て、国が負担している。加えて、毎月、若干の健康管理手当ても出ていたと思う。私も東京都から被爆者2世と認定され、昨年の食道癌の治療費は東京都が補填し、個人の支払いはなかった。

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