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南無阿弥陀仏

 2008年9月の日記です。
 
 些か寂しい話だが、もし私が今日明日にでも死に直面したとすれば、死をどう捕らえれば良いのか、死の先はなにもないのか、余剰次元の世界にいくのかよくわからないが、念の為、南無阿弥陀仏と唱えた方が無難かな、といった事を考えそうだ。 10年後には、もう少しましな事を考えたいとは思うが、自信はない。どっちにしても、人生を振り返るといったことはないだろう。

 人は、慣れる、諦める、忘れる、の三つの能力があるから、生きていけるわけで、多少のこと、いや、相当なことがあっても、時とともにダメージは薄れる。過去を振り返えるのは、学習効果としては有効だけれど、元に戻ししてやり直せるわけではない。だから、後悔はしないことにしている。

 この歳になれば、失敗したり、怒ったり、裏切られたり、もろもろの嫌なことは、誰にでもいくらでもある。私は、そういった心の傷は、「忘れる」の引き出しにしまうことにしている。勿論、直ぐに忘れるわけではないが、ふと思い出したとき、あれは忘れることにしている、と思えば、少し楽になる。
 
 死ぬとき、「忘れる」の引き出しは溢れんばかりに一杯だろうが、死んでしまえばそれまで、何も心配することはないのだ。
 
 
追:この時より人生の終局に近づいている今でも、ましな考えは浮かばず、
  この15年、さして進歩がない、と実感する昨今。
  今は、考えても分からないことは、考えても仕方がないから考えない、
  と割り切ることにしている。

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