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価値観の違いについて (1) ~事例「捨てられたおはぎ」~

事例について

事例
おばあちゃんが作ってくれた おはぎ が食べてもらえずに捨てられてしまった。

このような出来事から悲しさを感じる人は少なくないと思う。

この事例は、おばあちゃんが「相手に喜んでもらえる」と思って為した物事が、それを受けた相手からすると全くの無価値あるいは迷惑だった、ということだ。

この場合、おばあちゃんが差し出した おはぎ は彼女自身にとっては真に価値あるものだったはずだ。

ただし、おばあちゃんには相手の気持ちを推察する能力が欠けていた。
だから、おばあちゃんは相手にとって無価値か迷惑でしかない おはぎ を贈ってしまった。

そして、おはぎは相手によって困惑や不快感とともに捨てられることになってしまった。
おはぎ とともに、おばあちゃんの期待感や消費した資源(労力や時間、お金など)も捨てられたという風にも思える。

「相手の気持ちを理解すること」は可能か?

では、この事例から受ける悲しさの責任はおばあちゃんにあるのだろうか。
おばあちゃんが相手の気持ちを正確に推察できなかったのが悪かったのだろうか。

そうではない、と私は思う。
この推察能力の欠如は、悪意や怠慢といったものではなく、人間全員が等しく抱えている欠点だと思われるからだ。
相手の気持ちを汲み取ることには根源的な困難があって、そもそも人間には不可能なこと、ということだ。

相手の気持ちを理解できない理由

人間は、物事を認識するための基準、言わば「ものさし」のようなものを持っていて、それは人それぞれ違っている。

例えば、ある人は棒を「ものさし」として使い、別の人は球を使う。
物体ですらない物事を「ものさし」として使っている人さえいる。

だから会話も期待も、根本的に噛み合わない。
これが一般的に言われる「価値観の違い」の内容の一つだと、私は思っている。

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