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夏といえば。

夏になるとサカナクションが聴きたくなる。

特にモノクロトーキョーなんて聴いた日には1年前の今頃の記憶が鮮明に蘇ってきそうになる。おまけに立っているだけで汗が吹き出るような高い湿度の駅のホームでその曲を聴いたら、一瞬で1年前にタイムスリップできる。

私が在籍していた大学院の研究科の開設20周年を記念して、記念誌を作ることになったらしい。光栄なことに、各分野で活躍している卒業生として(くすぶってるぞ)寄稿させてもらえることになった。

たった1年前のことなのに、あの時どんなテンションだったか忘れてしまっていて、大学の行き帰りで聴いていた音楽や当時語った言葉の記録を読み返したりして、なるべくあの頃の気持ちに近づけるべく、音楽や文字を手がかりに当時を振り返ってみたいと思った。

去年の今頃は修論提出を7月末に控えていて、終日頭も身体もフル稼働しているような生活だった。他大学の先生からも指導を受けていて、他大で指導を受けた後に、自分の大学に戻って作業もする日もあった。

あの日も午前中に他大で指導を受けて、午後から自分の大学に戻って22時半くらいまで作業をしていた。睡眠はきちんととっていたし、同期と夕飯を食べたりして適当に気分転換もしていたから、辛いとかしんどいとか、そういうことは一切感じなかった。今思えばやや躁状態だったのかもしれないけど、「分からん」と頭を抱えながら自分の研究の沼にはまっていくのが好きだった。

あんまり遅くなると帰れなくなってしまうから、だいたいいつも終電の2本くらい前で帰っていた。もう電車の本数は少なくなっている時間帯だったけれど、ホームの冷房のきいた中待合で電車を待ちながら自分の中で罪悪感を感じずにTwitterを見たり、ラインを返したりできる貴重な時間だったので、それはそれでよかった。

その日は、午前中に受けた他大の先生へ今日の指導のお礼と指導後の進捗状況を報告するメールを打っていた。メールを打ちながら、急に大きく回るめまいがして「ああ、やばいやばい」そう思って、意外にも冷静に打つのをやめて少し休もうと目を瞑った。が、その後の記憶はない。

気が付いた時には、無機質な天井を眺めていた(ドラマとかでよくあるやつ)。白い天井とモニターのアラーム音はとても冷たい感じがした。不安だった。

医師が上から顔を覗き込んで「らばんかさん、今病院にいるんですけどわかりますか?」と聴いてきた。「はい」と小さく返事をしたと思う。その後、手に力が入るかどうか医師の手を握り返したり、病院に搬送されるまでの経緯の説明を受けた。ひどい頭痛と高熱が出ていたが、全部冷静に話を聴いて、「はい」と了解することができた。ERから電子機器が持ち込めない「EHCU(ICUの救急科版みたいな病棟)に移動するから今のうちに連絡とっときたい人には連絡しな」と看護師に言われて慌てて指導教員と他大の先生に「緊急入院になりました。いつ退院できるかわかりません。しばらくスマホ使えない環境にいるので連絡取れません。ほな。」みたいな永遠の別れみたいなメールを送りつけた。

後から聞いた話だけど、意識が戻る前に「(修論が間に合わなくなるから)入院はやめてほしい」と、医師にしきりに訴えたらしい。今では完全に笑いネタになっている。人間の本気(マジ)ってすごいと思う。ただ、私の願いはあっさりとスルーされて、当然のごとく入院となった。

深夜になって、両親が病院に来た。両親の顔を見た瞬間に、申し訳なくなって、どうやってここまで来たんだろうとか、多分4番目くらいに気づいていいはずのことが気になった。あとは、やっぱり修論のことが頭から離れなくて、情けない話だけれど「修論が…」と、全然諦められていなかった。母は「卒業が延びてもいいじゃない。学費なら出してあげるから、今は身体を治して」と言った。父は「心配するな」と言った。

私大の大学院まで親に学費を出してもらっている私は恵まれている。しかも、私のわがままで卒業を半期伸ばしているのだから、さらに恵まれている。だからこそ、卒業直前でやってしまった感がすごかった。

検査を一通りしたけれど、特に異常は見つからなくて、結果的に3日間の入院で済んだ。

結果的に修論提出には間に合って、無事に9月に卒業をしたけれど、身も心も健康なくして研究はできないと思う。体調管理には留意しているつもりだったけれど、それでもダメな時はダメだった。

今となってはそれくらい頑張っていたんだと、ある意味自己肯定できるエピソードだと思う。もう入院はしたくないけれど、それくらい本気で夢中になれることって今後、どれだけあるのかなと思う。

多分、毎年夏が近づくたびに去年の夏のことを思い出すんだろうな。

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