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マイナーな偉人を求めて5


これは愛知県・清洲城のふもとの公園にある織田信長像。

一般的なイメージの「いかにも戦国の覇者」といった雰囲気の織田信長ではなく、その他大勢の若い戦国武将のような出立ちをしている。

近くにある清洲城が信長の若いころの居城なので、意図的に若めにしているのかもしれない。

日本の歴史に大きな影響を与え、日本史の授業でも大きく取り上げられ、ドラマや小説や漫画やゲームなど様々な媒体で登場する織田信長のことは大体の日本人が知っている。

だが、当然日本の歴史は織田信長を始めとした数人の偉人によって作られたものではなく、星の数ほどの人間がそれぞれ自分の意志を持って行動した結果できあがったものである。

今回は、日本の歴史にそこまで影響を与えなかったが、出身地では少しだけ影響を残しており今でもその名が伝わっている、マイナーな偉人を見ていこう。

ちなみに今まで4回やっており今回で5回目だ。

※前のやつはこちら。
1回目
2回目
3回目
4回目

①ウォルフ&レミック

日本の歴史に影響を与えるのは、当然日本人だけではない。

1854年、ペリー提督が箱館(当時は函館ではなくて箱館だった)に来航した。だがウォルフとレミックが相次いで病死してしまう。

ウォルフとレミックは箱館の墓地に葬られた。ペリー提督は箱館を去る時に2人のための記念碑の制作を依頼したが、すぐには実現せず100年後の1954年にようやく完成した。

はるか遠くにある極東の島国を訪ね、そこで命を落として葬られた2人の水兵の名前と記録は、外国人墓地の墓石と記念碑に今でも残されている。

彼ら自身は日本の歴史に影響を与えてはいないが、黒船来航という日本の歴史に大きな影響を与えたできごとに登場する、多くの登場人物の中のひとりだ。

②はだか武兵

はだか武兵は江戸時代後期の、岐阜の駕籠かき(駕籠を運ぶ人)だ。

彼は岐阜県の鵜沼宿出身で、中津川宿に住んでおり、常にふんどし一丁だったという。

疫病を治す力を持っており評判を集め、江戸に向かう途中の長州藩の姫が倒れて医者が見放すような事態になった時も、ふんどし姿で現れて姫を全快させたといわれる。

彼は中津川宿で神として祀られており石碑が建てられている。

身分の高い姫君の前にふんどし一丁で姿を現すあたり、当時の基準で見ても相当な奇人ではあると思うが、伝説を見る限りでは奇跡の力を悪用することなく駕籠かきとして質素な暮らしを貫いた底抜けに良い人であることがうかがえる。

③松木庄左衛門

松木庄左衛門は江戸時代の小浜藩(大体現代の福井県くらいの認識でいいです)の庄屋だ。

京極高次が藩主となった時小浜城を建て財源が苦しくなったため年貢が増加し、京極忠高、そして酒井忠勝の代になっても年貢が下がらなかった。

そこで松木庄左衛門を総代として年貢の引き下げを求めて陳情を行った。

繰り返し陳情を行った結果捕らえられて拷問にかけられたが、陳情を取り下げることはなく、小浜藩側が折れて年貢の引き下げが実現した。松木庄左衛門は磔にされて28歳で亡くなった。

昭和時代になると松木神社で神として祀られるようになった。

生活が困窮して年貢の引き下げを要求しただけで拷問・処刑されてしまう時代に、自分の命と引き換えに年貢の引き下げを果たした偉人だ。

…………

今回は以上である。

ペリー提督に従って極東の異国を訪れ命を落とした外国人、奇跡の力を持ちながらふんどし一丁で暮らす駕籠かき、拷問に屈せず命をかけて年貢の引き下げを勝ち取った義民といった、個性的な偉人を紹介させていただいた。

織田信長などの有名な偉人と比べると残された記録はわずかしかないが、そのわずかな記録だけでも、秘めた信念や人間性が伝わってきて面白い。

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