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エンジニアになるまでの道のり(自己紹介)

友達の自分史を見つけて仲良くなるきっかけになったので、今回私も自分史を書いてみようと思います。笑

2002年7月、沖縄県赤十字病院で第3子として誕生した。
母と父は結婚を選択せず、私は生まれた日から女手1つで育ててもらった。

母は私の誕生と同時に子育てとの両立のため、自宅で英会話塾と学童保育を開業し、母の人柄と良心的な価格、立地のおかげで100人の定員がすぐ満員になった。
100人の子供達の末っ子として毎日違う子にオムツを変えてもらいミルク作ってもらう生活をした私は生粋の末っ子タイプに育った。

小学生の頃は、家が学童だったのでハロウィンやクリスマスはクラス全員家に呼んだり、運動会は解放して手巻き寿司パーティしたり、皆で私の家にDSを持ち寄ったり、沖縄特有文化の模合を開催したり人生で1番楽しんだ🤣🤣

中学は、幼稚園の頃から私の夢である「母の病気を治すこと」を叶えるため、医者を目指して、沖縄唯一の中高一貫校に進学した。
そして中学2年生、母が再婚相手を連れてきた。学童保育を辞め、会社員になり、再婚相手との3人での暮らしが始まった。
彼と私の初めての会話は「今日から俺をパパと呼びなさい」だった。

順風満帆だった私の生活は、思い描いてた人生とこの頃から大きく変わった。
母が連れてきた彼はPTSDでお酒を飲むと人が変わり、暴言暴力が私達に降りかかった。耐えられなくなった私達は気づいたら2人で夜逃げで家を出てた。

それが運命の始まりだった。
私の通ってた学校から私をつけて私達の家を特定し、母が昼も夜も働いて私が一人暮らしであることを知って、毎晩夜中に「開けろよ💢」と押し寄せてくるようになった。
母が過労で倒れ、家で休んでたことでこの事が母にもバレて責任を感じた母は精神的に壊れて働けなくなった。

警察に相談し接近禁止命令を出してもらい私たちはまた引っ越すことになった。そして通ってた私立中学も辞めて公立に転校することになった。

私は中学3年生。仲が出来上がってる教室に馴染めず、反抗期真っ只中の私は、私立の友達と離れることになったこと、次の日食べるご飯を買うお金が無いくらい貧乏であること、突然の受験が現れたこと、精神疾患の母と共に生きるストレスから人の心はあるんか?ってくらい母を攻撃して「娘と一緒に住まないほうがいい」とお医者さんに言われるほど母の病気は悪化した。

学費と受験期の塾代が払えないから医学部は諦めてくれと言われ人生やけくその私は、中卒で働いて整形してキャバ嬢になると宣言して、市役所がやってる無料自立支援塾で出来た友達と夜通し遊んで暮らし、将来安泰のために東京の高専に進学して欲しい母親と大喧嘩した。

高専願書締め切り3日前。母に見つかったら高専に入学しようと決めて、家出した。お腹すいて塾で無料提供されてるほっともっと弁当を貰いに行ったら塾の先生が母に連絡して捕まった(中3の考えが浅い私可愛い🙃)

そして、15歳の春、沖縄から東京の高専に入学。慣れない土地での初めましての人達との寮生活。
やりたいことや夢と希望のない高専生活は不安で仕方なくて「高専辞めたい」が私の口癖だった。

高専5年間は長くなってしまうため大分割愛するが、学生をしながら、自分の子宮の病気の闘病生活、認知に問題のある母の介護や施設探し、生きるための週7のアルバイト生活で私の体は精神科に通ってもどうしようもないほど心身ともにボロボロだった。

それでも、私のために他の教科の先生に掛け合ってくれる担任の先生や、朝起こしてくれたり課題を助けてくれたり、協力してくれた周りのクラスメイト、色々な側面から支援してくれたバイト先の上司に恵まれてストレート落単なしで高専を卒業した(みんなありがとう)

そして今年から新社会人。研究開発部で機械学習エンジニアとして働いています。
3月には全身麻酔での手術が2回、4月にはAI・データサイエンスの理解を深めるために社会人しながら大学に通います🙃

一筋縄ではいかない人生だったけど平凡になった今では刺激を求めて生活してる自分がいます😇

ここまで読んでくださった皆さんありがとう。濃い人生になるために誰か私にアドバイスをください。笑

おわり

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