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他人の不幸を見て、自分の不幸はそれほどでもないと言い聞かせる人たち。

最近、妙に気になる。首をかしげてしまう。

Covidで大勢の人が亡くなった。悲しいニュースが毎日入ってきた。ロックダウン生活に悲鳴をあげながらも、感染の不安に怯えながらも、私たち家族は不自由でも生きていると、自分に言い聞かせる。

ウクライナで理不尽な戦争が起こっている。父親が国のために兵士になる。ウクライナに残ると言い張る老いた親と泣く泣く別れ、若い家族が他国へ逃げる。毎日大勢の人が死ぬ。住んでいた町が破壊され跡形もなくなる。

自分よりも不幸な環境にある人の話を聞いて(探して)自分の環境はそれほど悪くない、この程度のことに文句を言っていいはずがない、あんな不幸に見舞われている人がいるのだから、私は幸せなんだと思う人がいる。

離婚の事情も様々だ。暴力やアル中などから逃れての離婚もあれば、浮気もある。私と同じように一方的に離婚を宣言されてというケースも結構多い。

一方的に突然離婚宣言されて、呆然とし慌てて相手に食い下がり懇願しカウンセリングに持ち込んだものの、思いもかけない相手の長年の不満を次から次へと聞かされて立ち直れないようなショックを受けている女性もいる。

夫婦で映画を見に行って帰宅したら、妻に離婚を一方的に宣言され、正気を失って家を飛び出し、何年もの間二人の子供と連絡が取れなくなり、のちに妻が子供に彼についての偽りの情報を与え続けていたことを知り、十数年後に成人した子供たちとようやく父子関係を取り戻した人もいる。

俺が浮気したのはお前のせいだから、その浮気相手の存在を受け入れろと平然と吐かす夫もいる。

条件交渉で、小銭の取り合いみたいなやりとりを平然と始める夫もいるし、嫌がらせ目的で、財産として分割するはずの家に居座り続けて売却させない妻もいる。

浮気した夫から生活費なんてもらいたくない、3人の子供の養育費と住む家だけを確保できればいいと、その他一切の財産分割をしないことに合意したのに、のらりくらりと養育費を払わず、収入が半減するような転職をして養育費が払えないと言い出す夫もいる。専業主婦だった彼女が職につき、自分が欲しいものも買わずに必死で子供たちにはできるだけ不自由させたくないと頑張っているというのに。

そういうケースと比べて、私はそんなにひどくない、ずっとマシ、と自分を慰めて「幸せ」だと思い込むのは、違う、と思う。

違うだろう。そういう生き方は。

幸せの基準は、人それぞれであって、他人との比較で自分は幸せだとか不幸だとかいうものではない。自分の目指す幸せとは絶対値であり、こうあるべき、こうありたいという絶対基準との比較で、どのくらい幸せか不幸かと判断すべきであって、他人と比較しての相対評価であるべきでない。

自分はあの人ほどひどくないから、幸せなのだと思うなんて、みじめったらしいではないか。

江戸時代の士農工商制度。一番下の商人の不満を逸らすために、穢多非人を含む賎民身分がつくられた。住井すゑの長編小説「橋のない川」をご存知だろうか。中学時代に読んで衝撃を受け、それは今でも私の意識のどこかに留まっている。

不満だけれど、もっとひどい状況だってあり得るのだから、と言っている人を見ると、私はいつも「橋のない川」を思い出す。

上だけを見て、まだ足りないまだダメだと自分を叱咤激励し続けて生きる人もいる。決して満たされることのないかもしれない人生でも、目標を高く高く掲げて生きて、自分が少しずつ夢に近づいているのが感じられるのなら、それは絶対値の評価だ。

今の自分の人生は、さまざまな岐路で考え、自分がこうしたい、こうすべきだと決断した結果である。その決断は、自分が目指す幸せの形をもとになされたものではないか。

今の自分がどんなに不幸か幸せかとの判断は、自分が描いた理想や夢との過不足を考えた後の絶対評価の中にだけある、と私は思っている。






ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。