クラシック音楽にまつわるエピソード。
小さい頃、ピアノを習っていた。練習するのが嫌で、母の嫌味と脅しに耐えて練習していたから、ピアノをやめたときにはホッとした。それなのに、クラシックというと私の耳はピアノの音を探す。その透き通る音は耳から胸の奥へと染み動く。
大学時代の彼 O君はクラシックが好きで、よくチャイコフスキーを聴いていた。30年前にアメリカ上陸してマンハッタンで暮らした独身時代。リンカーンセンターにせっせと通い、NYフィルを聴きにいき Met オペラも鑑賞した。日本人が認識するような「一般教養文化的なこと」に一切興味をもたない Ex. と結婚してからは、そして子供が生まれてからは、クラシックはわたしの生活から姿を消した。
子供が大きくなってベビーシッターがいらなくなり、クリスマスの時期に近くの教会で地元の高校生が演奏することを知り、一人で出かけていったことがある。家族3人は(なんでママは一人で?)と不思議に思いつつも、私が誘っても行くような連中ではないということはお互いにわかっていた。
近くの町にNJフィルが演奏にくることを知ったのはいつのことだろう。案内のチラシが郵便受けに入っていて、それはずっと私の頭のどこかに残っていた。
普段クラシックを聴く私じゃない。そもそも音楽を聴きながら何かをする、という習慣は私にはなくて、ウォーキングのときも料理するときも音楽よりも Podcast でニュースを聴く。
それが。ムスメと二人暮らしになり、運転するようになった彼女と出かけるときに Taylor Swift を聴かされた。私の生活に某氏が入り込んで、感情の起伏に振り回されながら、そして振り回されている自分を観察しながら聴いた Taylor Swift と Ed Sheeran は、「再会した」彼との時間の記憶と一体になっている。宇多田ヒカル、も辛い。
時間に余裕ができたせいなのだろう、音楽が私の生活に居場所を見つけ始めた。それは、昔日本にいた時に聴いた小田和正やユーミンやサザンだったりして、中学高校大学時代がいっきに蘇る。
さて。話をクラシック音楽に戻す。
離婚して、一緒に暮らしているムスメの大学進学が射程距離に入った頃から、一人暮らしのペースとイメージをつかもうとしてきた。私はとにかく家にいるのがスキだから、食料品の買い物すら週1回。数ヶ月に一度 NYC にいる友達に会いにいく。そんな中に、クラシックコンサートをハメ込むことを考えた。一冬に一度か二度。一人でさっと行って、2時間ほどひたって、さっと帰ってくる。
先日行ったコンサート。事前に「予習」としてベルリン・フィルのチャイ五番と内田光子のモーツァルトを聴いてから行ったのだけど、チャイコフスキーの生オケ演奏には文字通りノックアウトされた。Xian Zhang が小柄な身体全身を使って指揮する姿と、その動きに調和してオーケストラが奏でる音楽に、心が震えた。あったかいなにかが胸いっぱいに広がる感じ。
チャイコフスキーはいい。
実は。隣人がある日突然クラシックをすごい音量で流し始めた。ちょうどムスメの帰省中で、突然聞こえてきた音の凄さに二人であっけにとられた。スピーカーをもって部屋から部屋へ移動するのすら、わかる。
その音楽というのが、クラシックなんだけど、卒業式やお葬式でBGMに流すような聞き慣れた曲の連続。
あぁぁぁぁぁ。やめてくれぇぇぇぇ。
ムスメはイヤホンで聴くべきだと憤然としていたが、私はイヤホンを使いたくない気持ちがわからないでもない。でもこの音量は異常だ。とはいうものの、夜10時までは苦情の申し立てもできないという。
初日は、朝9時から夜9時過ぎまで同じプレイリストを繰り返していた。二日目からだんだん流す曲が狭まってきて、ある日は夜11時半過ぎまで。一週間後には卒業式葬式の数曲にしぼられた。音量がだんだん落ちてきたのが、せめてもの幸い。ひとり暮らしなんだろうか。あんな音量で何時間も聞いていられるなんて。
もしかして、夫婦ケンカして相手制裁のためにあの音量で嫌がらせをしてるとか?
あぁぁぁぁぁぁ。やめてくれぇぇぇぇ。
せめて、モーツァルトかベートーベンにしてくれぇ。ドビュッシーでもブラームスでもメンデルスゾーンでもいいから。
もしかして、胎教?
でも胎教なら、卒業式葬式クラシックなんかじゃ、だめよ。
先日のコンサート会場で。
私ごときにはどうせ違いなんてわからないから、高い席は買わないことにしている。むしろ安い席で気軽に頻繁に行くほうが私にとっていいと思うのだ。オーケストラ席の右端だったり、バルコニー席の真ん中だったり、上限 $50 までしか払わない。先日のチャイはバルコニー席だったけど、泣きそうになるくらい感動したから、これで十分なのだと確信した。
観客はほとんどが私と同じ世代か年上。先日は左隣は白人夫婦。右隣は中国人夫婦が座っていた。
この白人妻が….。いいなり従順風な夫が聞いているのかどうか、彼女はしゃべっている。しゃべりまくっているというのとはちょっと違うのだが、しゃべっている。
「拍手するべきところとしないところがわからない人がいるでしょ、必ず。今日はどうかしらね」
などと、まるで、お前はコンサート警察か、みたいなノリである。
さて。始まる前にアナウンスがあり、演奏中のカメラ撮影は禁止、休憩中や演奏直後にどうぞ、ということ。隣の中国人妻が演奏が始まってすぐにiPhoneでビデオ映像を撮り始めた。白人妻は「写真だめって言ってたわよね」と聞こえるように言ったが、中国人妻は撮影をやめない。フラッシュまでついてたから前の席の人が何事かと身体をよじる。白人妻は、私の前に身を乗り出して "No pictures." と言ってしまった。あの迷いのなさは見事だった。警察であることに慣れている。中国人妻はそこでやめた。
次に。白人妻の左方向から、光が流れてきた。横目で見ると、携帯を見てテキストしている人がいる。白人妻は当然ソワソワし始めるが、なにせ遠いので「注意する」わけにはいかない。
そして。今度は中国人妻の携帯が鳴った。電話ではなく、テキストが入った音。二度鳴ったところで、中国人夫が注意して、彼女は携帯をバッグの中にしまった。Mute の仕方がわからないらしい。
白人夫妻、私、中国人夫妻の前の席には誰も座っていなかったから、バルコニー席の真ん中に座る私達の視界は見事にひらけていた。休憩が終わって、後半が始まる前に、カップルが白人夫妻の前の席に座った。ガタイのでかい夫が白人妻の前になり、彼女の視界は遮られた。
もちろん。白人妻は「あぁ、これで見えなくなる」と文句を言い始めた。夫が「席を代わってあげようか」と声をかけても、"It's OK. I will live." と諦めたようなふてくされたような返事。移ってきたカップルには聞こえている声量である。その夫婦はびくともしないので、彼女は無視されている。演奏が始まる。私の側に頭をかしげて、演奏を観ていたのだが、演奏が終わって観客が立ち上がったら、なんとカップルに声をかけた。
「ここ、あなた達の席だったの?どこからか移ってきたの?」
どうも左側に数席ずれたところに座っていたらしい。その答えを聞くと
「もう少し右にずれてくれたら、私の視界は遮られなかったのに」
うへぇ。言いやがった。
こういう輩こそ、この辺に住む典型的白人妻。こういうのと子供たちの学校を通じてつき合わざるをえなかった私。ムスメが卒業してからはママ友はちょきんちょきんと切っている。
このやりとりを、私は子供たちにこっそり撮った写真と共に、逐一報告していた。
ほんとに。私はどこへ行ってもオモシロイことにでくわす。
ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。