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ジブリ版「君たちはどう生きるか」を読み解く③

宮﨑駿監督作品として公開以降レビュー評価が綺麗に二分され、様々な解釈がされている本作。様々なメタファーやシンボルが輻輳しており、一つの要素に仮託されている意味からどれを選ぶかによって印象が変わるためか、自分の考えと全く同じことを書いている記事は見つけられなかった。もちろん、宮﨑駿自身が全てを語らない以上、解釈も全て想像でしかない。本稿では、そのような自分なりの印象や考察について書き残そうと思う。とても1記事では収まらないと思うので、小出しにしていく予定だ。(パート2はこちら。)

 なお本稿は性質上、映画「君たちはどう生きるか」のネタバレとなる。映画館へ足を運ぶ可能性があるのなら、本稿を読む前に作品を観てほしい。まっさらな状態でしか感じ取れないことの中に、貴方独自の価値があるはずだ。


様々な童話や信仰の要素

 本作に散りばめられたメタファー的要素あるいはシンボル的要素は、ある程度の割合の人がすぐ気付けるようなものから一定の教養を要求するものまで、相当に幅広いようだ。ネット上のネタバレ考察を見る限りでは絵画からの引用もあるようだが、筆者は絵画については疎いため本稿では取り扱わない。童話や民俗学や宗教については筆者目線でも「これは…!」と思う所があったので、そちらについて纏めようと思う。


童話のメタファーあるいはシンボルとしての要素

 物語構成の原作として『失われたものたちの本』が明らかになっているが、本作には有名な童話を意識させる演出が複数存在している。児童文学としての援用や子供にも観やすくするための工夫だろうか。意図の優先順位は分からないが、結構分かり易く描かれていた気がする。

<シンデレラ(灰被り)>
 冒頭の火事のシーン、塔に入ろうとして頭を擦るシーン

<白雪姫>
 7人の婆や、インコに捉えられたヒミ

<赤ずきん>
 偽ヒサコの件、ヒミと猟師(漁師キリコ)が元の世界に戻る

<不思議の国のアリス>
 アオサギに導かれて下の世界へ、インコ兵士の歩き方、
 扉の外に出るとセキセイインコに


民俗学や宗教的な要素

 モーセの海割りにしか見えないあのシーンが最も分かり易いが、本作の至る所に民俗学や宗教的な要素が散りばめられていた。もののけ姫でもそういった考証に基づいた絵作りをしていた宮﨑駿ならば、本作も意図して入れてきているのだろう。

<アニミズム/神道>
 アニミズムの側面からの考察について、こちらのブログがとても参考になった。その他にも興味深い考察がされているので、読んでみて欲しい。

【南島の特徴】
・南島にくらす人々は、地理的に異なる本州とは別の死生観を持っていた。
は「日常空間と非日常空間」、「現世と他界」をひと続きに見渡すことができる場所

「飛鳥が家の中に入る」
祖先がその子孫に対して要求することがあると、霊界からオシラセがあるとされた

https://yureeeca.com/ghibli-kimitachihadouikiruka/

 母屋の入り口手前の柱を支える沓石(くついし)の意匠が鬼や狛犬のように見え、どうも沖縄感があって浮いているような気がしていたが、様々な文化の交流地点としても宮崎駿個人の言動から考えても、沖縄の存在感を大きく感じたのは勘違いではないだろう。ヒヌカン(火の神)信仰は女系継承であるし、ニライカナイ信仰は柳田国男曰く根の国と同一の概念だ。(つまり下の世界という表現とも符合する。)

 また、古神道には磐座(いわくら)という概念があるそうで、墓や降ってきた石にナニカが宿っている点については明らかにこの考え方で描かれている。トヨタマヒメやコノハナノサクヤビメに関する考察も見るなのタブーとして元ネタになっているだろう。また、神道において死は穢れであることから、魚を買いに来た「殺すことが出来ない影人ら」も神道系死者の魂のシンボルと読むことが出来そうだ。

 このように神隠し、境界、忌みや穢れなども様々な部分に描写が見られることからも、物語のベースはアニミズムや神道的設定が強いことが分かる。神道の『神は火水なり』という言葉は、火水を「カミ」と読む所を敢えて「ヒミ」と読むことも出来る。何故子供のヒサコがヒミと呼ばれるのか。カミにはなれないが、命を産み出すことが出来る存在として、当て字をしているのではないだろうか。さらに、ナツコが下の世界へ向かった要因の一つとして、13人(眞人、ショウイチ、ナツコ、7人の婆や、3人の爺や)という忌み数が見えてくる。これは深読みが過ぎるかもしれないが、ヒミは火水・13(忌み数)・焱(火が三つ の ほのお)・晶(日が三つ 澄んで輝いている)などダブルミーニングどころではない多面性を持たせた名前になっているのかもしれない。忌み数はおそらく違うだろうけれど。


<仏教>
 キリコの『ワラワラは上の世界で産まれる』、老ペリカンの『此処は地獄だ』など、輪廻転生や六道の畜生道と思わしき台詞から、仏教の要素が読み取れる。そもそもに、大伯父様自身が死の世界で石を積んでいる。これは賽の河原を意識しているように読める。親不孝をした子供の魂が向かう先が賽の河原であり、これは眞人の立ち位置とも符合していることから、もしも眞人が大叔父の申し出を受け入れた場合は同じ地獄が待っていたのだろう。
また、塔の崩壊時に多くの鳥たちが無事に脱出したのを見て、眞人は「良かった」と安堵している。後述するキリスト教シンボルの無事も願う心構えは正に仏教的と言えよう。(仏教は特に哲学的なので、言おうと思えば何とでも言えてしまうところがあるのが難しい。)


<キリスト教>
 神が世界を作ったというキリスト教的インテリジェント・デザイン論に則れば、大伯父様は神のポジションに居る。また、積み木の数の13はキリスト教的にも忌み数である。大伯父様の初登場シーンでは上空に星空が広がっている(天動説)が、世界が壊れる際には地面の下に星空が広がる(太陽中心説/地動説)。コペルニクス『天体の回転について』から小説版「君たちはどう生きるか」のコペル君を引き合いに出しつつ、この地動説の隆盛タイミングは中世ヨーロッパにおいてキリスト教会の権威が著しく失墜した時期に掛かるものだ。実に物議を醸しそうな考察になってきたぞ。大丈夫か?

 キリスト教的シンボルとして、ペリカンはキリストを表す。老ペリカン曰く、彼らは「ここに連れてこられた」、つまり神の御使いとして遣わされた。しかし、彼らは救世主にはなっていないし、地獄の苦しみを味わっている。では本物の救世主(イエス)は誰か?眞人しかいない。魚はキリスト教徒のシンボルで、彼らに待たれていたのは眞人だ。神の血族である彼が下の世界で再び生まれ直している物語(後述)のキリスト教的意義は、洗礼である。眞人が救世主としての再誕を拒んだことで、結果的に神の世界は崩壊した。宗教革命で教会の支配する世界が崩壊したように。

 かなり思想が強火な考察になってしまったけれど、宮崎駿だから可能性はありそう。これはあくまでも大伯父様の作った世界の話であって、ヤハウェの作った世界の話ではないからリアルとフィクションの区別は付けましょう、みたいな所なんだろうなぁ。


<イスラム教>
 ここまで来たらイスラム教のシンボル要素もあるだろう!と探したところ、それらしいのを二つほど見つけることが出来た。イスラム教において白いバラは創始者ムハンマドを、赤いバラは絶対神アッラーを象徴するらしい。大伯父様の初登場の場面で赤いバラが砕け散るシーンがあった。あれはおそらく、ここから先はアッラーの管轄外だというメッセージと読むことが出来るだろう。何故かと言えば、インコに捕まった眞人が夢から目覚めた時、包丁を研いでいるインコが刃先を見せつけるシーンがあるからだ。イスラム教では動物を苦しめてはならないという教えがあるので、アッラーの管轄下でアレをやるのはNGなのだ。

 世界三大宗教でイスラム教だけがここまで締め出されている理由についても何となく想像が付く。イスラム教が広まった経緯として、ムハンマドが軍を組織し、他国の征服活動を行った事が大きな要因であるからだ。知らない人も多いようだが宮崎駿は政治的には左翼を自称しており、納得が行く。


産まれ直しの物語について

 当たり前のように書いている「産まれ直しの物語」について、一体何処をどう解釈しているのかを書き忘れていた。この物語は眞人が疎開したタイミングから、産屋の扉が閉まるまでの間で描かれている(と解釈している)。

<着床>離れのベッドに倒れ込み、眠ってしまったシーン
ナツコが身重だと知って最初に横になることは一人っ子としての生の終わりであり、兄としての生の始まり

<胎児形成>アオサギの「お待ちしておりましたぞ。」から始まるシーン
魚と蛙が現れる順番は、胎児の形成過程と同じ

<意識の発生>水中からベッドに浮かび上がるシーン
(押井守ではなく、)羊水の中の胎児に意識が浮かび上がったことの隠喩

<産声>小説「君たちはどう生きるか」を読んで泣くシーン
涙はダブルミーニングとしても現環境での深層心理で初めての呼吸

<母との切り離し>触れた途端ヒサコが液体になってしまうシーン
羊水から離れたことを自覚した(母子一体でなくなった)ことの隠喩

<観察/性の準備>キリコと魚を捌く~ワラワラ転生のシーン
自他同一性の中で学ぶ社会、ワラワラの浮遊軌道は二重螺旋

<愛着>キリコとの別れのシーン
別れ際に抱き着くのは愛着の隠喩(余にも綺麗に回収するから感動した)

<他者受容>アオサギと森を行くシーン
アオサギの裏切り未遂について特に抗議をしなくなったのは此処から

<性の目覚め>ヒミに助けられてから食事までのシーン
炎ワープ中の管空間と血のように赤いジャム

<規範の理解>一度目の元の世界への扉~石に触れてビリっとするシーン
世界の仕組みを知ることは規範を理解すること

<他者理解>産屋でのナツコとのやり取りのシーン
ナツコの真意を理解してこその台詞回し
”上の世界から続く眞人”のエディプスコンプレックスの超克


ナツコの赤ちゃんについて

 前回後述すると書いて忘れていた「大伯父様の血族として、男子を産むために下の世界へ赴いた」と読んだ理由についても書いておく。

 まず、大伯父様と石の契約により、後継者の条件は大伯父様の血族である必要があった(条件1)。これを満たす作中の登場人物は眞人・ヒミ・ナツコ・ナツコの赤ちゃんの四人であるが、ヒミが後継者になっていない理由について明らかにはされていない。しかし、ここで神道の穢れの概念を踏まえれば女性は除外されるとしても不思議ではない。つまり、後継者は男性である必要がある(条件2)。現時点でナツコの赤ちゃんはどちらにも当てはまり、どちらにも当てはまらない。

 続いて、下の世界の特徴を言語化しよう。下の世界では、(ある程度であるが)大伯父様の望む事象が実現する。思い出して欲しい、眞人の夢に干渉する大伯父様、同級生に喧嘩で負ける少年であるにも関わらず、常人離れした塔の壁登りを成し遂げる眞人、ナツコの事を知らなかった筈のキリコがナツコを探して保護する、等々。下の世界において辻褄が合わないレベルのご都合展開が起こっているのは、大伯父様が因果律に干渉しているからではないだろうか?であれば、眞人が下の世界へ来なかった場合のプランBとして、ナツコの赤ちゃんは男の子が生まれるように仕組まれていても不思議ではない。もちろん、大伯父様も赤ちゃんの成長を待つことが出来ないであろうことは自覚していた筈だが、ナツコ自身が男の子を望んでいたとすればどうだろうか。

 ここでナツコの境遇を考えてみよう。かなり太い家系に生まれ、ただ一人残された女性だ。家制度においては男児が生まれて欲しい、家を残して欲しい、そう思わなければ勝一と結婚する選択肢は選ばない筈だ。すると結果に対する目的がシフトする。大伯父様はナツコの願いを叶えるために下の世界へと誘い、男の子が生まれるように因果律に干渉したのではないだろうか。


どうしてこんなに詰め込んだのか

 宮崎駿としての人生をプロローグにすることを決めた以上、現在の世界の全てを盛り込みたかったのではないだろうか。「世界の縮図」と表現されている方も居たが、まさにその通りだと思う。小説版「君たちはどう生きるか」が、その時代の未来を担う若者に対して様々な世界を示したように、宮﨑駿なりのアンサーとして詰めるべきと感じたものを漏らさず詰めていったのではないか、そして何より、その全てを詰め込んでなお物語として成立させる手腕あってこそ、日本を代表するアニメーション監督になったのだ、と感じた。

 ジブリ版「君たちはどう生きるか」について長々と解析・考察してきたが、読みやすい構成で文章が書けるのはここまでだと思っている。書こう書こうと思いつつ忘却してしまったこともある気がする。なんだっけな。ということで、次回、純粋な感想に突入して最終回としたい。お付き合い頂けると幸いだ。<続きはコチラ>

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