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座禅を組む人

ショートショート 800文字

 子供の頃、寝室の天井が板張りで、眠る前に木目でいろんな想像したのを思い出した。地図に見えたり顔に見えたり海に見えたり、あの頃は想像力が豊かだった。今は何にも思い浮かばない。
 お堂の隅で木壁を見つめ続けて長いことになる、と思う。でも三十分で鳴るらしい鐘はまだ鳴らない。足が痺れてきたし、なにより暇だ。

 目をつぶっていろんな事を考えるのが座禅だと思っていたけど、この寺では薄目を開けて壁を見て、栗みたいな形にした手の間に意識を集中させるらしい。意味がよく分からないまま始まってしまった。ただ、自分の心を見ろと言われるとやはり思い浮かぶのはあいつのことだ。もう別れてから五年は経つというのにまだ心に穴が開いているみたい。
 でもその穴は私が作り上げた幻想だ。もう一度会えれば、嫌なところも見えてくるだろうに。会えないばかりに勝手に私が理想の人を作り出してどんどん穴は広がってしまった。それに気づくのに長いことかかった。

 この間まで気の利く後輩くらいにしか思ってなかった彼は横ですまし顔をしている。初めてのデートが早朝から座禅だとは。断ろうかと思ったが終わった後で出してもらえるというお粥が絶品だということなのでついてきてしまった。
 突然告白され、あまりに驚いて何と返していいか分からなかった。三十も過ぎたし付き合うなら結婚まで考えるよと言うと、いいですよと事も無げに言われて付き合うことになってしまった。まるで私がプロポーズをしたみたいになっている。どこまで本気なのだろう。

 もう一度横目でちらと彼を見る。顔も性格も別に悪くはない。そもそも期待も理想もないのだから意外と上手くいくのだろうか。すまし顔で壁を見つめている。ミステリアスといえば聞こえはいいが能天気なだけなのかもしれない。
 それでも、彼を見ているとあんなに大きかった心の穴が、案外小さいものだったような気がしてくるから不思議だ。

 ようやく鐘が鳴った。あと三十分ですと言われてため息が出た。

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