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願い
子供を持つということが、昔からよくわからなかった。
わからないという言葉が正しいのかは定かではないが、想像できない、思い描けないという
ような形にならない思いは存在していた。
友人同士の他愛もない会話の中で、子供はほしいか、男と女どちらが良いか、何人ほしいかなどという女の子なら誰でも一度は経験のある話題。
その中で、いつも疎外感を感じていたようなことは覚えている。
彼女らと自分の前に目に見えない壁があって、まだ見ぬ遠い未来を思い描く優しいまなざしや希望をたたえた笑みを壁の向こうから眺めている気分だった。
まだ、自分のセクシャリティは自覚していない。目を向けることすらできない。
ゲイやレズビアンなどという言葉は何となく知っているがまさか自分がそうであるはずがない。
そんなことは、テレビの中の話だと心から思っていた。だが、子供や妊娠というような選択肢は自分の中にないのではないだろうか。という漠然としたものは根底にあったのだと思う。
何人、男女、作るのか否か。そんな、質問は選ぶ権利のある人間が遠慮なく放てる言葉だ。
自分はそうじゃない。選ぶ側ではないと
自暴自棄になっていたんだと思う。
他人に知られてはいけないものを抱えて生きていくというのは、常に爆弾を抱えているようなものだ。
しかも、その爆弾はいつ誰によって築き上げてきた生活や人間関係を爆破されるかはわからない。
爆破された後と前、その中心に立っている
私は何一つ変わりはしないのにそれを遠巻きに眺める人たちの目はたいてい冷ややかだ。
着火した当人と言えば、ばつが悪そうに目を
伏せるかそそくさとその場を後にする。
どこからそんな自信がわいてくるのだろうと
不思議になるくらいに糾弾を始める者もいる。
残された私にできることはそう多くない。何でもないというように目じりを下げ口角を
あげ笑みを見せるか、その場を後にするかだ。
そうやって切り抜けてきた。
切り抜けるしかなかった。
「普通」というものにどれだけ憧れただろうか。
何でもないということがどれだけ価値のある
ものに見えたことだろうか。
選択肢の一つを持つことをなんの努力もなしに与えられているということが、どれだけ妬ましいと感じたことだろうか。
テレビで流れる話題のドラマ、流行りの歌手が歌うラブソング、当たり前に触れることのできるそれらの中に私が見たい姿はない。
聞きたいと願う思いは耳に届かない。
なんだ、そんなことくらいで。と思うだろう。
だが、そんなことを願ってなにが悪い。
そのドラマの中で繰り広げられるのは、必ず
男性、女性のいわゆる異性の恋模様なのだ。
圧倒的な「普通」がそこに存在する。
恋い焦がれる歌の中に私はいないないのだ。「あたし」が思うのは「彼」だ。
「俺」が愛するのは「彼女」だ。
私が想うのは「彼女」だ。
そんな歌にまだあったことがない。
いつも「彼」や「あたし」を一生懸命置き換えようと努力した。感情移入出来る様、数少ない自分の恋愛経験を重ね合わせられるよう試みてきた。
だが、それもいつしか疲れてやめた。
まただ。と思った。壁の外と内。
また私は外なのだ。
そう思わざるを得なかった。
ロールモデルがいないというのはそれだけで
世界から孤立したような気分になる。
誰かに自分の気持ちを演じてほしかった。
歌ってほしかった。それをただ、のうのうと
享受し浸っていたかった。
世界には無条件に与えられている者と、
それを切望し時間をかけ、
お金をかけて手にする者の二者がいる。
その境界は残酷なくらいに明白だ。
「願う」だけでは手にはいらない物があるということを思い知らされる。
そんな事を今日も考え、また明日を迎える。
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