かみさまのこども

 この町には神様がいる。その神様というのはとんでもなく非道いやつだ。わたしはそのことをようく知っていたけれど、それでもわたしは黙っていいこにしていることが義務だった。仕事だった。わたしはいつかこの町を出ようと思っていた。だから神様のことを嫌っていても別にどうだってよかった。…どうだって、よかった。だって見えないものを嫌うとか愛すとか、そういうはなしはあまりに馬鹿馬鹿しい。賢しいわたしはそれを願っていたし、ある程度馬鹿に、こどもらしく振る舞うことが出来ていた。
 しあわせな、家庭、だった。だった…のだと、思う。可愛い妹と弟、お父さんとお母さん。わたしは本当は異物なのに誰もそんなことは言わずに、わたしが一度誘拐されかけてからはお母さんの態度の緩まり、わたしたちはただの家族のようになっていった。或いはそうなるために、あの人は、誘拐なんてものをしようとしてくれたのかもしれなかった。
「お前の母ちゃん、人殺しなんだぜ」
 そんなことを言ってきたのは近くに住んでいる酒癖の悪い親父だった。わたしの身体が今はまだ未熟だから何もしてこないだけで、これから先はどうなるか分からないような目をしている男。未熟でも良いと、そんなことを言い出さないことを今は幸福としておこう、とわたしは考えていた。しかし、数年後にはわたしはきっと未熟ではなくなってしまって、その時はどうしようか、ちゃんと考えなくてはいけない。何かが起こる前に殺してしまえばよかったのだろうけれど、わたしにはその力がなかった。わたしはいい子で、だから人を殺すなんて恐ろしいこと、考えられなかったのだ。
「―――そうなんですか」
わたしは静かに答える。背中には弟がいるのだから怒ってはいけない。
「お前の母ちゃんはな、」
分かっていないと思ったのか、それとも単にわたしの態度が気に食わなかったのか。にやり、と酒臭い息を吐いて男は続ける。
「お前の本物の母ちゃんを、自分の姉を殺したんだよ」
目の前が真っ赤になったのか、それとも真っ暗になったのか、よく分からない。覚えていないのだ。気付いたら背中で弟が泣いていて、慌ててあやす。下手な唄は変わらなかった。さっきの男は何処に行ったのだろう、わたしが呆然としていたからつまらなくなって家に戻ったのだろうか。そんなふうにわたしが思っていると、弟が必死で何か訴えようとしているようだった。
「どうしたの?」
「あ、あー…」
まだ言葉はしっかりと形にはならないが、弟だってもう、周りのことが分かるのだ。まだ近くにあの男が潜んでいるのだろうか。それならば確かに危ない。弟もあの男のことは嫌っていたはずだし、こうしてわたしに警告をくれるのも分かるような気がする。
「大丈夫、お姉ちゃんが守るから―――」
ね、というのは、要らない言葉になった。
 がんがん、ばん、ぐしゃ。
 音は違ったかもしれないと思った。階段の下で、男が死んでいた。そういえば此処は前にも事故があって、名前も知らぬ男が死んでしまったのだった。
「だい、じょうぶ…」
掌が、熱い。記憶はないが、これだけは分かる。
 わたしが、確かにその男を突き飛ばした。
 わたしは、人を殺してしまったのだ。
―――不思議、と。
怖いとは思わなかった。物言わぬ屍になってしまったその男が起き上がってくるかなんて考えることが出来ないくらいに、頭がぐしゃりと潰れていた。熟れた南瓜の方がまだきれいに爆発しただろうということくらい、男の死に際は汚いものだった。
 弟の泣き声が止まないものだから静かにさせろ、と人が出て来る。そしてわたしが応えないのを見て、視線の先にあるものを見て、ぎゃあ、と悲鳴を上げた。それで人がわらわらと集まってきた。
「事故か?」
「あの子の力じゃあ突き落とせなんてしないだろう…」
「また此処で人死にか」
「お祓いでもしてもらった方が良いんじゃないかね」
「しかし、あの男…」
「………ああ、よく、あの人にもつきまとっていた…」
「改めて見ると、瓜二つだなあ」
そんな声の中で呆然と立っていると、今のお母さんも慌てたように階段を駆け上ってきて。その際に男の潰れた頭の欠片を踏んだように見えたけれど、良かったのだろうか。
 ぎゅう、と抱き締められる。まるで今から、こうやって殺そうと言うかのように。
「―――この人、」
だから、という訳ではない。わたしは何も知らないのだ、何も知らない。わたしがあの家族の中で異物であること、今のお母さんの姉である本物のお母さんが、わたしを生んだこと。父親が一体何処の誰かも分からないこと。わたしはいい子だから、それが分かる。
「滑って…落ちた、の。助けられたかもしれない………」
そんなこと、と誰かが言う。お母さんは何も言わない。
「でも、動けなくて。だって、この人、言ったのよ、」
 息を、吸う。
「わたしのお母さんを殺したって、」
お母さんの腕の邪魔されて大きくは吸えなかったけれど、周りの大人たちにはちゃんと届いたらしかった。ざわめきが更に広がっていく。
「言ったの、」
―――だから、助けられなくて。
 涙が浮かんでくるのはどうしてだろう、そんなこと、欠片も思っていないからだろうか。自分の浅ましさに呆れているのだろうか。誰も―――神様も、信じていない、くせに。信じていても非道いやつだと思っているから、罰されることなどないのに。
「言ったのよ」
わあわあと火がついたように泣き出したわたしを誰も責めることはしなかった。私の母は、本当の母は、誰からも愛されてしまう困った人だったらしい。だから、あの人を殺したというのなら、と。神罰だ、と誰かが言った。そうだ、と賛同の声が上がる。此処にわたしを疑う人は勿論いるだろう。それでも、わたしを責める人は誰もいないのだ。仇討ちの正当性なんてもうないのに、周囲がそんな空気に染まっていくのが分かった。
 その、大丈夫、という空気の中で。
 今のお母さんだけが、わたしを抱き締めて離さなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?