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海底

泣くほどこの世界が嫌いになってみたかった。自分ではどうしようもないことなんだって、朝のニュースを見てベランダから花束を放り投げるような、そういうひとになってみたかった。きみが知っているぼくのこと、みたいに。誰でも出来ることが、ぼくにとっては死ぬほど難しくて、本当のところは死ぬよりも簡単だけれど、死ぬ方がずっと楽であるみたいなことを、言ってしまいたくて、逃げたくて、逃げる場所もなくて、いつだって踏切の音を聞いている。
この耳の底には海がある。
きみが、ぼくが、生まれた海を、きみは知っているかな。きみの死体が流れ着いたはずの、その海で。くじらがどんな歌をうたっていたのか、きみはもう知らない。何度も何度もきみになる中で、きみは、そういうたいせつなことを忘れてしまった。別に、いいけどね。覚えているぼくの方が、おかしいというだけ。チョコレートは割って食べるもので、かじりつくものじゃあない、そんな感じ。
何処かで起こった誰かの悲しいことが、全部ぼくの所為だったら良かったのに。もしもそうだったら、ぼくは気軽に死んでしまえた。そこらじゅうの花であることも忘れて、ひとおもいに。でも、そういうことはないから、理由もないから、結局ぼくはきみの隣りにいる。おかしいって? そういう話だから仕方がないよ。
きみのことが、たぶん、
すきだ。
この気持ちは「すき」以外の言葉では表せなくて、でもそれは恋ではなくて、愛でもなくて、ぼくたちの持つ言葉というものは、結局、そういう不具合さを孕んでいる。それでもきみは、愛するんだろう。ぼくなんかと違って、きみは、簡単に「愛」って言ってみせる。それが悪いことだとは言わないよ。きっと、とてもたいせつなことなんだ。ぼくにはそうは思えないけれど。
明日の天気は何かな。きみが尋ねる。知らないよ。ぼくは答える。天気なんかよりもずっともっと話さなくちゃいけないことがあるはずなのに、結局きみはちゃんと今を生きることをする。そういうきみを、憎んでしまいたかった。嫌いだって、叫んで、ふたつに分かれてしまいたかった。きみが別人だったらどんなによかっただろう。
そういうのは、夢物語。
絶対に叶わないこと、紙くずにだってなれない。涙は枯れてしまった、ぼくはきみのために泣けない。きみのために、雨を降らせることは出来ない。こんな文字を打つのに、罪悪感ばかりが襲ってくるのに。
きみは今、何処にいるかな。
ぼくは、きみの、
視界の中に、いるかな。
どうせぼくは必要ない存在で、掃いて捨てるほどいるけれど、きみは、きみのぼくは、ぼくだけだよ。それでもぼくは、消費されていく。そういうものだよ、だって、ぼくはきみの何でもないのだから。

名前をつけてよ。

いつか日記の裏に書いた、きみの墓標が叫んでいるよ。珊瑚の昼寝を忘れたきみに、伝えることなど何もないけれど。それでもぼくはいるよ、此処にいるよ、此処にしかいられないよ。
さよならを本当は、
きみに言いたかった。
何処でだって必要のないぼくが、何処かにいるべき理由を、せめて此処にいてはいけない理由を、追い出されるべき理由を、
きみに教えて欲しかった。
「でもそんなのはあっても同じことでしょう?」
そうだよ。
泣くほどこの世界を嫌いになってみたかった。みたかっただけで、きっと、本気で嫌いになったら、きみを殺してしまうから、嫌だった。


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