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展覧会評・家村ゼミ展2023

ジリジリと照りつける陽射しがつらい夏の日。私は歩き疲れて木陰に腰を下ろす。バックから水筒を取り出して喉に流し込む。一息つき、ふと前を向くと、通りすぎる人が太陽に照らされてシルエットとして目に映る。木にもたれて頭上を見上げてみると、葉や枝が光を湛えてざわめきながら黒く染まり、その隙間から青白い空が見える。

このような感覚を抱いたのは私だけではないはず。もちろん上記の光景を再現するためだけに展示がなされたわけではないだろうが、本展覧会の鑑賞体験を一つの物語として文章にするなら光と空と日陰と木々と人間とが相互に関係し合いながら作り出された経験、時間的な幅を持った空間であった。

家村ゼミ展2023『空間に、自然光だけで、日高理恵子の絵画を置く』は多摩美術大学アートギャラリーにて2023年10月11日から27日にかけて開催されていた。会場に入ると左右に部屋が見える。二つの空間は対比されて置かれており、一方では作品が外光の入る窓に正対して展示され、一方では窓ガラスを背にして展示されており、順光と逆光が意識されていた。左の部屋に入り、進んだ先には他と比べ非常に小さな作品が光の乏しい中にぽつんと置かれている。その先には高い天井で、横から外光の入る大きな空間が広がり、隅に二つの作品が置かれている。順光と逆光、横からの光、光のない空間。それぞれの違いは日本の豊かな四季を表しているようだった。しかし、作品自体はどれも逆光として、黒いシルエットとして描かれていた。

逆光は表面の模様や装飾を消し去り、シルエットとして輪郭を露わにする。白と黒の簡略化された色彩の中で、全ての色を備えた白である太陽光が作り出す黒のグラデーションが日高の作品である。平面に乗せられた岩絵具の粒子一つ一つの凸凹が乱反射を引き起こし、光を拡散させる。その光は床のモルタルや、白くざらついた壁面、設備類が絡み合う天井とでこだまし、空間を彩っていく。最終的に白で溢れる空間の中で唯一の黒である絵画の岩絵具へとまた光は辿り着き、その深層へと吸収される。光への意識、光への希求こそがこの作品ひいては展覧会の肝であろう。

太陽光が生み出す色彩の中で我々は生きている。それだけではない。太陽のもたらす熱すなわちエネルギーが植物を育て、水や空気を循環させ、生命を育んでいる。全ての源は太陽なのである。木々の造形や葉っぱのつき方は太陽の光をいかに多く享受するかその試行錯誤の末に出来ている。太陽光をその身いっぱいに浴びた植物を描く日高の絵画は光への切望を体現したかのようである。ゆえに自ずと展示空間も光の在り方について強く意識させる場となっていたのだ。

印象的であったのは、自然光の入らない暗い部屋に小さな絵画が隅に展示されていた空間だ。そこでは誰もがその絵画に惹きつけられ、近づいてしまう。鑑賞者は光の届かない深海を泳ぐ小魚であり、ひとつの小さな灯りに誘われてチョウチンアンコウに食べられてしまうのではと夢想した。生物の持つ光への欲求が空間全体で表現されていたのだ。

絵画を見つめることによって、矩形キャンバスのフレームが消え去るという体験を何度かしたが、これをイリュージョニズム的な奥行きと立体を生む窓、鑑賞者を絵画世界へと引き込む装置として捉えるのは早計だろう。なぜなら本展覧会において、絵画を見つめるという従来の鑑賞方法は第一の重点ではないからだ。小冊子にも書かれていたが、本展覧会は絵画そのものを鑑賞する場としてあるのではなく、「空間に過ごす」ことを目的としている。感じるべきは絵画や壁面や天井や床や窓や鑑賞者自身の身体であり、それぞれに固有な「フレーム」を徐々に取り去っていき、全体を一つのものとして見つめることだ。演劇舞台の中に入りこむのではなく空間を空間のまま見るということ。鑑賞者は用意された座布団に座り、壁に背をもたれることで次第に言葉や常識によって固定されていた事物の境目をなくしていくことができた。

絵画は再現ではなく新たな場を生み出す。

近代に生まれたホワイトキューブという無機質で等質な空間を作り出す場は絵画そのものを鑑賞するために作られたが、果たして場と作品とを完全に切り離すことは可能だろうか。ホワイトキューブの目指した何も語らない空間は、意味を持たないという意味で強い意味を持っている。これは単なるレトリックではなく、現実の感覚として白く閉ざされ自然から浮遊した矩形の空間は異様であり、鑑賞に大きく影響を及ぼす。鑑賞が、場所と作品との関係ではなく、作品のみに向かうこと自体、近代特有の特殊な在り方ではないのか。かつて、教会や修道院、貴族の部屋に飾られた作品は、窓の位置を考慮して陰影をつけ、そこに訪れる人々の興味関心、求める主題に沿った作品を作った。ラスコーの壁画にまで遡って考えるなら、洞窟に壁画を描いた古代人は、明滅する火を使って原始的な映像を生み出していた可能性がある。だからこそ、洞窟という光のない場所に動物という主題を描いた。本展覧会の姿勢は近代に失われた作品と場との不可避な接続を再度復活させるものであった。

開催された場所は美術大学の構内であり、多くの美術大生が通る建物の中にある。公共性を持ちながら、美術的に私的な場所でもある。誰もが入れる大学という開かれた場所の側面と、美術大学という特殊なアートワールドに属する場所の側面。この場にあったからこそ、自然光を使った大胆な展示ができたのである。歴史的に有名なほとんどの絵画は依頼されたものであったり、社会的、経済的、美術史的な要請から描かれているものが多い。近代以降であっても、完全に自らのために創作活動が行われているとは言い難いだろう。創作は程度の差はあれど、必ず場所ひいては社会と結びついている。だからこそ、社会の中に存在する空間と作品との関係は、公的もしくは私的な場所であろうとも、切り離すことはできない。

ふと気づくと辺りはもうすっかり赤く染め上げられていた。どうやら木の下で眠り込んでしまっていたらしい。木陰は地面に溶け込み、次第に失われゆく夕方の色彩が物悲しい。青かった空も黒かった枝葉も本来の色に戻っていた。名残惜しさを感じながら重い腰を上げ、私は帰路についた。

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