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展覧会評⑤「まとめ」

批評は終わらない。

一ヶ月間考え続けた私の四つの展覧会評を解体し、再構築することで以下にまとめた。


「らんらんと まみえるものの ゆらめいて」

広間の窓から見える言葉の存在は、大きな天空に鑑賞者を惹きつける。空間は不可解で怖い一直線のようで、六つの染め上げる色彩が奇怪な場所を隔てる。そして、平凡な部屋がお化け屋敷に見事に変わる。生徒と家族は一緒に行かず、生きるためアイドルのベンチに貼り付けられた神秘的な思いがあった。

「しみこんむ くろくはがれる かさねたら」

愚かしい解体。作品の中で事件は家族に付された。彼らは果たすべき使命を振る舞う平面を信仰していた。自ら作品を創作し、銃弾のような言葉がインターネット上で凄まじい強さを発揮する。神性の銃はお父さんの短い鉄パイプと肋骨で出来ている。

「はがれてしまう このいしを いかにみる」

立体恐怖症で生きることができない者は、続けて思考を見えなくする。ピルが白く切り離され、結び付けることができない。0×0の論理の中で、我々は混ぜられ、顕著な展覧会で生じる暴力を取り付けるための管を持つのだ。毛糸は小奇麗で多様性と宗教を抹消してしまう。

「ことのはは さみだれてみだ りんとさる」

価値観はSNSで表現されず、物理的な笑いを求め、狭量な喪失を持つ。音声と絵画は社会的表現と有効な多様性に耐えうる。だからこそ、取り付ける商品を巻き込むことができ、新たな音声と文頭の視覚が抽象的な作者に道しるべを示していた。アメリカの家族は、部屋に銃を持って立ち入り、絵画と鉄パイプを肋骨にして生きるのだから。

「みつめはき ところからずに つづかなし」

禍々しい独特な無神論者。古瀬の綿布を生けるある日の植物がコンクリートブロックに時空的な給油を試みる。そして、広間の窓からの景色は言葉で表現しがたい存在世界を描いていた。文章が胡散臭いこともあれば、大きな天の空間(絵画)が白い銃弾のように平凡な日常を打ち破ることもあった。

「じくうがよ りくうきのしも にずってて」

所狭しと展覧会が開かれ、奇怪な解体作品や事件のような創作が展示されていた。銃弾のような肉体たちがベンチに座り、貼り付けられた神秘的な絵画に集中している一方で、銃弾のような存在は力強い意味を持って鑑賞されていた。社会や信仰や鑑賞においても、鉄パイプのように立体的な作品に恐れることなく向き合い、生きることが求められている。力強い音声で言葉を伝え、絵画の中に描かれた社会を生きることを受け入れなければならない。

「でざぶるい かんとうげしい もののかげ」

多様性と宗教の価値観が切り離され、物理と論理が縫い合わせられている社会的表現が、多くの人々に希望の言葉を届けている。SNSの用いる言葉や笑い、刺繍された表現は、小説や創作としてのピントを合わせ、視覚と抽象を備える作者たちに向けられている。その道しるべとなる独特な綿布と、進むべき、生けるべき方向を示す植物が、コンクリートブロックと鉄パイプに閑散と縫い合わせられ、多様な心象風景を作り出す。その風景は独特な古瀬と古川と山上の感動的な創作によって明確な方向を持ち、不可解なことに、透明な正しい社会へと発展していった。


いくら語ろうとも、言葉にした瞬間にこぼれ落ちる筆致を全て掬い取ることは、何万字書き綴ろうとも不可能だ。そこで私は本展覧会タイトルの作成方法に活路を見出した。計17000字ほどあった展覧会評をAIを使って解析し、重要な文章や単語を選出した。それらの言葉をランダムに組み換え、特徴的な表現を抜粋することで文章を作成した。

出来上がった文章を読んで、使われている語彙は同じであるが、見逃していたあらゆる可能性が浮き彫りになったように感じた。絶対に思いつかないような単語同士の結びつきが新鮮で、まさしく「言葉をつむぐ」ということが「何かをたぐりよせる」営みであると実感した。文章が持っていた言葉の結びつきや関係性の一切が解きほぐされ、言葉本来の意味領域が復活し、また新たな言葉と並置されることによって今までにない関係性が構築されていたのだ。ここで重要なのは使われた語彙が展覧会を表現しうるものであったということ。だからこそ、無秩序で支離滅裂な文章にならずに済んだ。私のこれまでの批評は無駄ではなかったのだ。言葉による網目は際限なく細かくすることが可能であり、細かいほどに描写される事物の解像度は上がっていく。表現する言語は一つでは足りないかもしれないし、人間の知覚とは別に成立した未知の言語が必要かもしれない。だからこそ、いつまで経っても、

批評は終わらない。


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