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生物を展示する倫理的・美学的判断について

先日、銀座三越の8階にあるアートアクアリウム美術館に行ってきました。そこで見た数々の展示を通して「生き物を展示すること」について考察してみようと思います。
 
まず、実際に行ってきた日のことを振り返りながら、素直な感想を語ります。最寄りの駅から銀座まで電車で1時間。日本屈指の高級街であり、高級ブランドショップや有名レストランが立ち並び多くの観光客で賑わう街、銀座。その中でも伝統のある老舗百貨店、銀座三越。その日は日本株の好調のせいか、とても活気付いていて中は両手に紙袋を下げた人でごった返していました。人混みの間隙を縫って歩き、やっとのことで美術館に辿り着き足を踏み入れると、薄暗い空間の中に常時移り変わるライトが、金魚の水槽を赤に、白に、緑に浮かび上がらせていました。女性の香水と美術館のアロマの匂いが混ざり合って、鼻がひん曲がるような思いで進んでいくと、円筒型の水槽に金魚が上に下に泳ぎ乱舞していました。「金魚の回廊」と名付けられたそこは、本殿へ向かう神社の荘厳さを備え、神秘的な世界への入り口として観客を誘っていたのです。

アートアクアリウム美術館には、カップルが多く、皆つがいになって、和気あいあいと喋っていたのですが、私は一人だったので彼らの話し声がいやでも耳に入ってきて、仕方なく聞いていたんです。みんなの反応は主に「キレイ」とか「かわいい」などでしたが、それらに加えて聞こえてきたのが、「きもい」や「グロい」という声でした。目玉が左右に飛び出たデメキンや水泡というまぶたの下の袋が大きく発達した水泡眼という異形の金魚に対して、「キモい」だとか「グロい」と言っている人々を見て私はとても複雑な気持ちになりました。過度に装飾的な種類の金魚は野生では生きられません。フナの突然変異種が金魚で、本来淘汰されるはずの変異を人間の手によって保護し広め、一つの種として確立させた生き物です。ですから、その姿は、生存のための淘汰圧が加わっておらず生きるために不自由な、人間の好む派手な色と異様な形をしています。よって、人間は金魚を品種改良した加害者側です。さらに私を含めその場にいた人々はアートアクアリウムという金魚を作品として展示する団体にお金を払っているわけで、そういう人間が被害者である金魚に対して、自らのやったことは棚に上げ誹り嫌悪することはあまりに酷い仕打ちだと思います。彼らは、何を考えてそのような発言をしたのか、はたまた何も考えていなかったのか。私の考察はこの発言を聞いた時の驚きから始まりました。

後日、アートアクアリウムについて調べてみると、様々なことがわかりました。

「アートアクアリウム 金魚 大丈夫? 」
「アートアクアリウム 金魚 かわいそう」
「アートアクアリウム 金魚 ストレス 」
「アートアクアリウム 金魚 死んでる 」

これは「アートアクアリウム 金魚」と検索した時に出る関連キーワードです。金魚の飼育環境について懸念を抱いている人が多いことがわかります。現在、銀座三越にあるアートアクアリウム美術館はもともと日本橋に設立されていて、あることをきっかけに一旦閉館し、改めて銀座に設立されました。あること、とは上記のような金魚の扱いに関して多くの批判が集まったこと。小さい水槽の中に大量の金魚を入れることによる酸素不足や明滅する強烈なライトや館内に響く音楽などが、金魚にとってストレスとなりヒレに白い点が現れる『白点病』やヒレに切れ目が入り、ボロボロになっていく『尾腐れ病』という病気になる金魚が目立つようになったのです。
しかし、これがきっかけで金魚の飼育環境が見直され、現在の銀座にあるアートアクアリウムは健全なものになったとされています。

確かに、私が見た限り、金魚の中にこのような病気に罹患している個体は見られませんでしたし、ひっくり返ったり沈んだりして死んでいる金魚も見かけませんでした。では、本当に金魚にとってアートアクアリウムが適した環境なのかと問われれば、それは確実に違うと言えます。金魚が過密状態で展示されていることは依然変わりませんし、ライトも音楽も変わりません。ただ、なぜか金魚は病気では無くなった。これは、美術館の開館前の入念なチェックと金魚のケアの賜物でしょう。作品として展示する以上、ある程度の金魚への負担は致し方ない、と運営者は考え、しかし、その金魚への負担を見せないようにすること、なるべく小さくしようとすることに努めているはずです。

鑑賞者に美しいと思ってもらうためには、金魚に餌を食べさせることはできません。前半で見せたあれだけの数の金魚が一匹もフンを肛門から伸ばしていませんし、水質はとても綺麗で、かといって常時水を取り替えるシステムがあるわけでもない。ならば、当然、フンを全て出し切ってもらうためにエサは前日から抜く他ありません。私はこれが金魚への虐待だといっているわけではなくて、そういう負担の元に展示の美しさが成り立っていること、そしてその負担と生き物を尊重するということ、この両者のバランスが生き物を展示するにあたって最も熟慮すべき点であると私は考えます。
1日から2日、餌をあげないことによる金魚への負担は、金魚が一週間程度餌がなくても生きていけることを考えれば、それに伴う美しさのメリットの方がはるかに重要であると判断できます。ですから、餌を数日あげないことに関してアートアクアリウムの判断は十分理解できます。しかし、このように弁解していっても、生き物を作品として展示することの倫理的な問題を完全に払拭することはできません。そして、それは、アートアクアリウム美術館にとどまらず、動物園や水族館、植物園にも同じく指摘することができます。

動物園や水族館や植物園、そしてアートアクアリウムは命あるものを展示しているという点で共通しています。これらの施設は、歴史が古くはるか3500年前の中東にまで遡ることができます。人は好奇心に駆られ、動物を捕まえ、海外から輸入し、檻の中に入れ観察して楽しんできました。現在は、科学的研究、公的な教育、娯楽施設などの役割があると言われていますが、娯楽以外の目的には動物を檻の中に閉じ込めることに対する負い目を正当化させる口実としての側面が強いように思えます。元々住んでいた場所から隔離され、野生とは全く異なる環境に閉じ込められた生き物を調査観察して、果たして正しい研究や教育になるのかどうか疑問が残ります。我々は動物園や水族館や植物園で暮らす生き物をみるとき、心のどこかで罪悪感を覚え、かわいそうと思ってしまうことでしょう。だからこそ、このような施設は、いかに動物たちが自由でのびのびと暮らしているように見えるかに腐心してきました。柵の代わりに掘を作ったり、環境を野生に近づけたり、生きた餌をあげるようにしたり、できるだけ人間が動物に対して不自由を強いないように努めてきたわけです。しかし、これらの施設が存在する限り人間の罪悪感が消えることはありません。

例えば、新明解国語辞典では、動物園を以下のように定義しています。

第四版
生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設

第七版
捕らえ来た動物を人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し動く標本として一般に見せる啓蒙を兼ねた娯楽施設

第七版では少しマイルドになりましたが、どちらも動物園に対して批判的であり、人間のエゴを非難する文章であることは明白です。

「生き物を展示する」とき、必ず鑑賞者は罪悪感を抱きます。展示の仕方によってその程度は小さく、感じにくくできるでしょうが、完全に取り除くことは難しいでしょう。これは、テーマパーク「スペースワールド」の炎上騒ぎからも明らかです。

根本的な疑問ですが、なぜ、いつ、生き物に負い目を感じるのでしょうか。

例えば、漁業において大量の魚が水揚げされハラワタを抉り取られ捌かれることに対して魚が可哀想だと、倫理的問題を感じる人はあまりいないでしょう。しかし、水族館の中で魚が弱り水中をゆらゆらと漂って底に落ちるのを見た時、多くの人はショックを受けるはずです。両者において等しく我々人間は加害者ですが、違いは目的にあります。前者の場合、人間の本能で最も優先される生存の欲求に直結する「食事」として魚を捉えている為、その行為には妥当性があり正当化され問題ない行為だと認識されます。しかし、後者の場合、我々の生存に直結しない「娯楽」として魚が捉えられている為に、目の前で魚が死んだ場合、それまで教育され身に付けてきた倫理や道徳との矛盾を認識し、罪悪感を感じるのです。

https://image.itmedia.co.jp/l/im/nl/articles/1611/26/l_kikka_161126fl3.jpgより引用

テーマパーク「スペースワールド」の失敗は、魚を、それも我々人間の漁労という行為によって死んだ魚を、氷の中に閉じ込め、なおかつ、魚の埋まる氷の上でスケートをさせようとするという、あまりにも我々の加害性を強く認識させる展示にしてしまった点にあります。使われた生き物は商品価値がなく人々の知らないところで日々大量に捨てられている魚やカニですから、合理的に判断すればスケートリンクの装飾として使うことで価値を生み出すという発想は評価されるべきでしょう。しかし、人々はそんなこと知りたくないのです。見せて欲しくないのです。我々が魚を安価に食するために、商品にならない魚まで一緒に捕獲され、捨てられているという事実を人々は受け止めきれないのです。

人間が、人間を尊重するのは至極当然なことで、その尊重を人間と同様に動物全体にまで広めていくことは、必ずしも正しいことだとは思いません。生存のために、生き物を殺め食べなくてはいけませんし、生活のために、家畜の毛皮を剥いだり、生き物を薬や道具として用いることは人間にとって必要不可欠なことだからです。では、果たして、檻の中に閉じ込め鑑賞すること、作品として生き物を展示することは必要なことなのか。難しい問題で、容易に解答を出すことはできません。

生き物に対してあからさまに不自由を強いて、人間の娯楽的要素を高めた展示をするときに、よく「アート」という言葉が使われます。アートの権威性や曖昧さが、展示の正当性を主張する道具として用いられてしまうことはよくあることです。ある作品をアートかアートでないか判断するのは非常に困難なことです。だからこそ、アートを自称した作品を批判するのは難しい。その便利な性質を自覚し、慎重に用いることが大切だと思います。

このように「生き物を展示」する際には、さまざまな観点から慎重に進めていく必要があります。我々は人間の動物への加害性を認識し、受け入れつつ、行きすぎないように内省することが大切です。生き物を展示する以上、生物の命の尊重と作品との美しさの両立とバランス調整が求められるのです。

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