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展覧会評④「回答を待つ」

演劇性の行き着く先はコンテンツの全くない、無。何も置かず何も感じさせない空間があるはずです。その場合、鑑賞者の創作はとどまることを知らず、全くの無から宇宙を作り出してしまうかも知れません。それは白い壁面を真黒く染め上げてしまうほど。

白を黒にし、無を有にするものは何でしょう。それは境界、境目です。境目は中と外、白と黒、無と有を隔てるもの、性質が違うものを隔てるものです。例えば教室の扉、絵画の額縁、広間の窓、あるいは、スマホの縁とか。これらの境目を繋ぎ合わせるのは人の言葉です。言葉が人と鳥を繋ぎ、天と地を繋ぎ、地上と冥界をつなぐ。

これを踏まえて以下のお話を考えてみましょう。

これは、私が在籍する多摩美術大学でつい最近、体験した不思議なお話です。鑑賞論という授業を受けていた私は、授業内で「はがれてしまう このいしを いかにみる」という展覧会を見ることになり、食堂に隣接した絵画棟の広間を訪れることになりました。他の生徒よりも早めに行って一人で鑑賞しようと思い立ち、午後二時ごろに向かいました。そこは何度か通ったことのある場所でしたが、作品が展示されることによって全くの異空間と化していました。昼間は食券機に大量の生徒が並び、食堂を飛び出して絵画棟の広間まで列をなして続いている光景をよく目にするのですが、その時は昼をとっくに過ぎた頃でしたので、いたのは展覧会を見に来た数人程度で、閑散とした雰囲気でした。人はその場に居るというだけでかなり空間に影響を及ぼすので、人が少なかったのは幸運でした。

私は展示空間を見回り、いくつもの作品をじっくり鑑賞していきましたが、一つ、とても気になる作品がありました。見えないのです。ガラスの窓に言葉が書かれているようなのですが、人間の目には見えない特殊なインクによって書かれているようで、どれだけ目を凝らしても、どれだけ見る角度を変えてみても一向に見えません。諦めて違う作品を見ればいいのですが、私は意地になってそればかりを鑑賞しつづけました。結局のところ私には何も見えず、少々苛つきながら帰ることになりました。

                                                                                          Q見えていますか?

授業後、鑑賞した展覧会について批評する課題が出され、私は先ほどの苛つきをぶつけてやろうと思って、見えない作品とは何事か、と、批判する文章を書いたのですが、提出するすんでのところで思いとどまって真っ当な評論文を書くことにしました。ですが、やはりあの作品はずっと私の中に引っ掛かり絡まるつたとなって存在し続け、事あるごとに作品のあり方について考えさせられました。

そんな時に、ある生徒の評論であの作品には呪術的な要素があるのだと書かれた文章を読み、ひどく納得しました。なるほど、あれは単に内容のない、コンテンツのない空虚な作品なのではなく、呪術的素養を持った人物があそこに書かれた言葉を読み解くことで真の作品世界に到達できるのだと。いや、であるならば尚更、あそこに書かれていた文字を読んでみたいと思ってしまうのが自然な人の心情と言うものでしょう。

                                                                                       Q見えていますか?

先ほどの解釈をもとに再度展覧会を回ってみました。するとどうでしょう、広間は何かとても不気味に、不可解なものとして存在し始めるのです。おしなべてお化け屋敷と言われるものは暗く、淀み、血糊に塗れたお化けと絶叫と奇怪な物音に満ちていますし、すべからくお化け屋敷とはそう有るべきです。ですから、静かで穏やかで、白い空間に何の変哲もない人々のいるお化け屋敷などあり得ません。しかし、本当の奇怪はそんな平凡で白く色褪せた昼下がりにこそやってくるものなのです。そこはなんら曰くのない平凡で退屈な空間のはずが、呪術師の手によって、ないはずの恐怖が、ないはずの怪談が生まれ得る白い空間と化していたのです。しかし、それでもなお、私の目には窓ガラスに書かれているはずの呪言も祝言も見ることができませんでした。


                                                                                             Q見えていますか?    

私はもう自分で見ることは諦めて、オカルトが好きだと言っていた胡散臭い知り合いを頼ることにしました。本当に見ることのできる人間がこの世に存在しているのか分かりませんが、見えていなくとも彼ならば適当に納得できる面白い文章を考えて答えを出してくれるのではないか。そんな半ば諦めた気持ちもあったのだと思います。諸々の話を済ませ、展覧会へ一緒に行きました。


                                                                                 Q見えていますか?

彼は広間に入るや否や、何か、もごもごと、言葉を発しました。

「あめ、、、みど、、、みこと」

「え!見えてるの?」

「見える」

彼ははっきりと、僕ではなく誰かに話しかけるように言いました。彼が言うには、書かれていたのは窓だけではないのだそうです。壁や柱、床や天井、そして他の生徒の作品の上にまで、びっしりと、まるで新聞紙に大きく印字されたような、インクのシミが粒立った文字が所狭しと書きなぐられて、目を離すと文字がさらに増えていく。彼は怖くなって目を覆ったまま、出て行ってしまいました。演技なのだとしたら相当な役者です。私は彼の言っていることは本当なのだと直感しました。

                                                                                Q見えていますか?

それからというもの、彼は不可解な言動を繰り返すようになりました。あの時みた言葉が頭の中を離れず、ぐるぐると渦巻き、海馬を犯し、記憶を真っ黒に染め上げるのだと。そして、それはスマホやパソコンやテレビの画面にも本の文字列の中にも現れ、挙げ句の果てには全身を這い回り、覆い尽くそうとするのだと。彼は一体何を見たのでしょうか。


                                            Q見えていますね?

「寂しがり屋の子供が、あの空間に、俺の部屋に、俺の文章に、入り込んで広がって染み込んで、俺を連れて行こうとする」

「たす、、、」

「よむ、、、天鳥、、、」

「にげ、、、天鳥船、、、」

「やめ、、、天鳥船嬰、、、」

彼から最後に送られてきたのはこんな言葉でした。

「天鳥船嬰児命」

皆さん、出来れば心の中で唱えてみてください。おそらく、こう読むのだと思います。

あめのとりふねみどりごのみこと

窓は内と外、地上と冥界を隔てる境目なんです。そこに文字を書くということ。そして、その文字を読み上げるということ。これが意味するのは、、、

見つけました。


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