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展覧会評①「作品のメディウムから」

9月5日から9月16日にかけて開催された展覧会「はがれてしまう このいしを いかにみる」は言葉と作品の関係を追求した展示である。6名の油画科の生徒が出品し多様な作品を作り出した。以下に作家と作品についてそれぞれ記述する。

 平面から立体そして音声も使って一つの作品としたリ・チエさんの「とある日のメモリー回線」は、絵画や言葉や音声といった様々な次元の表現媒体とコンクリートブロックや鉄パイプといった既製品を組み合わせている。一目見たとき、どこに目を向ければ良いのか分からない。壁面の文章は難解そして詩的であり、前面にある鉄パイプの造形物に解読を遮られる。鉄パイプの土台にはコンクリートブロックが使われ、抽象的な絵画が置かれ、カーブミラーが取り付けられている。他には言葉が印字された束ねられたフィルム、傍らにはラス網があり、少し離れた壁にはプラスチックコップの中の土に植物が生けられた造形物が設置されている。
 何種類もの表現が行われ、多様な質感と大きさと重さを備えた作品であり、これらを一つの意味へと帰結させるのは難しい。人によって全く違う解釈になるのはもちろん、1人の鑑賞者の中でもどう見れば良いか分からないだろう。鉄パイプと文章がどう接続し、植物とコンクリートブロックがどう関連しているのか。私はその意味をタイトルに求めた。この作品は現在という指標をもとに作者の「とある日」の再現を試みているのではないか。タイトルからも分かる通り、作者は記憶や思い出に関して表現をしていることは確実であり文章からも読み取れる。この作品はいわばシュルレアリスムの無意識の表面化のように、無意識領域と意識領域を横断する記憶という概念を表面化しようとしているのだろう。一見、支離滅裂に見える作品群が示すのは、作者の頭の中で「とある日」の記憶が文章として、音声として、抽象的な絵画として、プラスチックコップに生けられた植物のように、あるいは鉄パイプの質感で存在しているということだ。「現在」が絶えず過去に、記憶になっていく過程で様々な感情や色彩が捨象され、残ったものだけが言葉や絵画のみに押し込められることに作者は寂しさを感じ、足掻こうとしたのだ。ゆえに、この作品からは言葉に関する不信感や諦めも感じる。私はいま、この文章を書いているうち、作者が死力を尽くして言葉の檻や暴力性から抜け出そうとした作品をまた、私の言葉によって閉じ込めてしまってよいのか疑問に思ったが、しかし、私には書く他にないのだから、言葉にならないことを言葉にする努力をしていくしかないのだと思う。

 土の入った麻袋に金属製の杭が刺さり、先端に括り付けられた紙に日常の出来事と作者の考えが綴られた作品が会場内に点在している。これは大塚昴さんの作品だ。
 「みちしらべ」というタイトルには創作の「迷い」に対する道しるべと展覧会を見て回る上での道しるべの意味合いも込められていることだろう。SNSの中の言葉のような、荒削りな思いが土に突き刺さる形で強固に固定されている。これは人々がSNSに自分の感情や思いを吐露することでストレスを発散している様を自らと重ね合わせ、物質化しているのだ。作者は言葉を用いて自分の迷いを可視化させ発散しながら、言葉を道しるべにしながら、創作の向かう先を定めていった。しかし、作者の進む先は未だ不安定で不確実だ。絶えず試行を繰り返し、道中で得た感覚を言葉として残し、道しるべにし、進み続けていく。芸術家は誰しもが創作し続ける限り迷い続ける。作者はその創作者の苦悩自体を作品として表現した。

 中津川莉音さんの「回答を待つ」と「きこえて見えず」という作品は、なんの意識もしないままでは全く見当たらない。私が彼女の作品の中で視認できたのはガラス窓の一区画に貼られた文章だけだ。文章の内容は人間には見えないが鳥には見える言葉がどこかに書かれていることを示唆するもので、人と鳥の間にある視界について言及している。他にも紙や粘土や貝の殻を使った作品があったらしいのだが見逃してしまった。
 言葉は読まれることを前提として書かれるが、この作品の文字は誰にも読まれることがない。人は視覚的に読むことができず、鳥にはただの模様にしか見えないはずだ。そして書いた本人にも読むことはできない。言葉が言葉としての役割を全うせず、新たな意味を持っている。それは、鳥ひいては人間以外のすべての生き物の視覚や世界を意識させることである。人間特有の言葉という営みが人間の視覚世界から離れ他の生物の視覚世界へと進入し、しかし言葉としての役割は果たすことなく存在しているという不思議さが、この作品の肝だ。人間は、見えないが存在しているであろう言葉を仲介にして鳥の世界に思いはせ、知覚を共有することができるというわけだ。彼女の作品は鑑賞者の世界観を拡張し、展覧会を異空間へと変容させるものであった。作品がはっきりと認識されることなく展覧会を特別な空間にしていたのである。

 1階から2階にかけて2点、関帆乃加さんの作品がある。1階には塩ビ管とビニールホースに毛糸が巻き付けられた「お父さんは心配なんだよ」という作品。大きく湾曲した一本の管の左右に短めの管が取り付けられ、絵画棟の支柱に縛りつけられている。毛糸の色や柄は場所によって様々だった。2階には綿布に糸を用いて言葉の刺繍が施された「・・・のアナグラム」という作品が天井に糸を結び、空中に浮かぶように展示してある。
 綿布に刺繍された言葉はかろうじて判読できるが、明確な意味は分からない。布に糸で言葉を縫い付けるという行為の痛々しさとは裏腹に、言葉は詩的だが悲惨さは感じない。ボロボロでシワだらけな綿布は作者自身の身体を表現し、その上に刺繍された糸は、彼女に投げかけられた言葉もしくは彼女自身の言葉が刻み付けられているのではないかと想像した。言葉は糸となって針のような鋭さでその意味と思いを体に刻みつけ縫い付ける。そして、取り込まれ消化され解かれた糸は背骨と肋骨を模した一階の作品へ結びつき、彼女の体を紡ぐ一部となる。言葉は決して消えることはなく、多様な色と柄を作り出し体を構成し続けるのである。

 次に、古川ななこさんの作品は小説と映像と絵画とそれらを統合した空間それ自体である。ベンチに置かれた小説を読む時、映像や絵画を見ることはできないが、読み進めるうちに感じる独特な空気感があたりを包み込むのを感じる。小説と絵画と映像とがシームレスに繋がり作者の世界に入り込むような感覚に陥るのだ。いわばこれは鑑賞者が鑑賞者としての立場を越えて創作者側に回っているということではないだろうか。
 小説を読んで考えた解釈や感じた空気感が筆者と全くの同一であることはあり得ない。だから読者は新たな小説を創出しているのである。そもそも作者は表現しようとしたものを過不足なく作品に含めることはできない。程度の差こそあれ、変換ミスや減衰や誇張が起こることは仕方がなく、作品は創作された時点で作者のもとを離れ全くの別物となる。さらに、多様な背景や価値観を持った鑑賞者たちの解釈によって作品は当初の形とはかけ離れていくことだろう。しかしだからこそ、作品は多くの鑑賞者に見られることによって新たな価値が創出され、より含蓄あるものになっていくのだ。解釈の幅を許さず徹底的に「正しい読み」を強要するような作品は、作品ではなく情報であり、それが作品として提示されるならば、ただのプロパガンダであろう。古川さんの作品は鑑賞者の可能性を広げるような試みがなされていた。小説は詩的で様々な解釈ができるものだったので、読後の感覚が自らの積極的な解釈行為、創作行為によるものだと自覚でき、その上で見る絵画や映像は小説を読む前とは比べられないほど面白かった。

 古川さんと古瀬巽さんの作品に対するアプローチは似ている。古瀬さんの作品は彼独自の感覚によって壁面に配置された様々なサイズの抽象画と文字が印刷された透明のフィルムが貼り付けられた木枠である。鑑賞者はそばに置かれた木枠を手に持ち、言葉を乗せた透明なフィルムを通して抽象画を鑑賞できるようになっていた。
 実際にやってみて分かるのは、当然だが一方にしかピントが合わないということ。言葉を読もうとすれば絵画はぼやけて背景に溶け込み、絵画を見ようとすれば言葉は判読不可能なノイズになってしまう。では作者はなぜ、木枠を絵画の額縁にし、同時に見えるようにしなかったのか。一つの仮説だが、鑑賞者自身が木枠を通していない絵画と通した絵画、そして言葉にピントを合わせた状態と絵画にピントを合わせた状態を選択することができる、可変であるということを目指した作品だからではないだろうか。さらに、鑑賞者は立ち位置によって木枠に絵画を合わせるのか、飛び出させるのか、収めるのか様々な鑑賞の仕方がある。鑑賞者が試行錯誤しながら自分なりの作品にしていくという行為には創作者の鑑賞者に対する信頼や期待を感じる。その点で古川さんと古瀬さんの作品は共通していた。古瀬さん独自の視点としては、油絵という媒体を重層的な表現として捉え作品にしたことだろう。油絵は絵の具を重ねて描いていく。一つ一つの筆致には作者の思いや伝えたい言葉が織り込まれ、重なっている。今回、作者は制作するにあたって言葉と自分の作品との関係を思案し、油絵の重層性に気付き、油絵の中に溶け込んだ言葉を再度、一つのレイヤーとして鑑賞者に提示し意識させることで、言葉と絵画との関係性を露わにしようとしたのではないだろうか。

 人間は言葉で思考する。もちろん人間の身体性を無視することはできないが、創作活動を言語なしで完遂することはほぼ不可能であろう。であるからこそ、作品を作るためのツールとしての言葉をあえて主役にし、言葉と作品とを同じ土俵にあげて考えることは人間の創作活動における言葉の可能性を引き出しており、とても面白かった。一つ一つの作品が独立した存在感を放つとともに、一つの展覧会としてもまとまり見応えのあるものだった。


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