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展覧会評③「銃弾」

2022年7月8日11時31分。

鉄パイプから放たれた六つの銃弾のうちのいくつかが、国家に巣食う宿痾の喉元へと食い込み、その打倒を果たした時、同時に一人の尊い命が失われた。ニュースを見た私は悲劇に心を痛めながら、歪に変形した国家が完全な破滅に向かうのを幻視した。彼の行動は暴力こそがこの世を変えうる唯一の手段だと世間に知らしめた。メディアではジャーナリストたちが言葉の重要性を語り、彼の行動を否定したが、もはや信じる者はいなかった。事件によって、猛烈な批判を受けることになった宗教団体のボロボロな姿が全てを物語っていたのだ。

 私は最近、ずっとこの事件に固執している。どうしても他人事に思えない。私も彼のように徹底的に追い込まれたとき、言葉でも自死でもなく、自らを追い詰めた社会へ復讐するのではないか。社会から見えない暴力を受けつづけ、孤立し困窮しどうにもならなくなった時、それでも自らの尊厳を保ち続けたいと望むならば、社会を否定し壊すしかない。私は恐れているのかもしれない。彼のようになることを。そして同時に、彼のようになれなくなることを。

 本展覧会の作品一つ一つは現代社会の様相を表し、深く切り込むものであった。それは銃弾のように空間を破壊しながら進み、鑑賞者に深く訴えかけた。以下、六人の作家が残した現実世界への切実な作品の想いを、銃創を、記録する。


① 解体と銃弾

ガムテープによって組み合わさった二本の銃身は鉄パイプでできていた。誰でもホームセンターに行けば買えるであろう道具が、本来の生産目的から切り離され、有ろう事か人を殺める銃として使われた訳だ。これは一種のブリコラージュだが、果たしてこの世に無から生み出されたものなど存在するだろうか。モノや思考は本来持っていた役割から切り離されて、再度新たなモノや思考を形作っていく。あらゆる作品はモノや思考の寄せ集めであり、解体と再構築が創作の基本だろう。

 リ・チエの「とある日のメモリー回線」における鉄パイプは足場という本来の役割を果たしつつ、作品として展覧会に展示されることによって全く異なる意味が与えられていた。鉄パイプの造形に指向性がなく、上下左右が消失したことで、そこに載せられた絵画も本来の鑑賞される方向を失いモノに解体されていた。また、壁面に貼り付けられた文章には不思議な細工が施されていた。文中で用いられる「現在」という言葉に付された※が示す多様で複雑な時間の流れは、時間の遡行や加速や凝縮を引き起こし、読者の感覚を狂わせたのだ。さらに、言葉の平面性は音声となる事で変容し、音は人工音声となることで生気をなくし、言葉の書かれた紙を千切り土に埋め、重ねて折り曲げる事で物質へと変化させていた。こうして、言葉が従来持っていた時間感覚や音や平面性が解体されきったのである。

 芸術作品とは本来こうした営みであるはずだ。文学も映画も絵画も、既存のスタイルや価値観を破壊し、文字や映像や絵の具が持っていた固定的な役割を解体し、再構成することが芸術家の目指すところだろう。リ・チエの作品はそういった芸術家の進むべき道を指し示すような作品である。本作は鉄パイプ等の道具の意味的解体を基点として、絵画や言葉を解体して見せていたのだ。


② 家族と銃弾

「親が子を、家族を、何とも思わない故に吐ける嘘、止める術のない確信に満ちた悪行、故に終わる事のない衝突、その先にある破壊」

 社会の中に居場所が見出せないものにとって家族は唯一の居場所となる。家族という形態は社会に組み込まれながらも、社会から人を匿う場所でもあるのだから。彼は愛や執着や責任感によって家族を見捨てられなかった。家族という形態に愛ゆえに固執してしまった。

 関帆乃加の作品は主に毛糸が使われていて、毛糸と塩ビ管で肋骨を模したものと刺繍の施された綿布が展示されていた。私は初め、ボロボロでシワだらけな綿布は作者自身の身体を表現し、その上に刺繍された糸は、彼女に投げかけられた言葉もしくは彼女自身の言葉が刻み付けられているのではないかと想像した。言葉は糸となって針のような鋭さでその意味と思いを体に刻みつけ縫い付ける。そして、取り込まれ消化され解かれた糸は背骨と肋骨を模した一階の作品へ結びつき、彼女の体を紡ぐ一部となっていると考えた。しかし、タイトルを見てその解釈を改めた。二つのうち特に背骨と肋骨を模した作品のタイトル、「お父さんは心配なんだよ」が新たな視点を提供した。作品を見ただけでは、私には全く「お父さん」の要素は感じられなかったが、作品をタイトル通り、「お父さんが心配している」ところとして捉えると、二階にある綿布はどんな意味が込められているのだろう。あの糸でできた背骨と肋骨がお父さんなのだとすれば、いわば父親から半身を受け継いだ子供が糸によって二階に紡がれているのだろうか。「お父さん」の過剰な心配は子供を糸で縛りつけ、家族という形態に押し込めるのかもしれない。と同時に、子供もまた家族という共同体から脱することができない共依存の関係。本作はこうした現代における家族の有り様を表現しているのかもしれない。


③ 信仰と銃弾

彼の悲劇は自らを唯一救えるかもしれない宗教が最も自らを傷つける暴力そのものであったという点にある。彼ほど、神に、宗教に愛想を尽かした者はいないだろう。信仰を持つことができなかった為に、このどうしようもない社会を一人きりで生きていくしかなかった。そして彼の起こした事件によって、さらに日本人は宗教を疑問視し、信仰を持てなくなった。

 「無宗教」と語る日本人が生きていけるのは、テレビやスマホに映るアイドルを信仰しているからかも知れない。アイドルの原義は偶像、崇拝される人や物のことであるが、現在では「熱狂的なファンを持つ若い歌手やタレント」のことを言う。旧時代の信仰が失われた日本で、人々はテレビやスマホに映るアイドルや芸能人を神として崇め出した。「推す」とは「信仰する」ことに他ならず、皆からの信仰によって神性を獲得したアイドルはそれに応え、神のように振る舞うことでさらに信者を獲得していく。アイドルはアイドルとして誕生した瞬間に神性が宿る。それ以前がどんな人であったかは問題ではない。アイドル活動は神性の発揮である。アイドル卒業は神性の剥奪である。神性は再度新しくアイドルになる存在に宿る。アイドルについて議論される時、よく挙がるのは恋愛禁止についてだが、恋愛禁止は当たり前の条件であろう。神という立場にいる以上、人と恋愛するなど堕落そのものだ。アイドルは排泄もしなければ、恋愛もしない。しかし、この高度に情報化された社会にあっては神であり続けることは至難の業だろう。上述のように、本当に生活の全てをアイドルとして振る舞い続けることが求められ、絶えず神の如く振る舞わなくてはならない。つまり、当然だが、アイドルは完全な神にはなり得ない。

 中津川莉音の「回答を待つ」「きこえて見えず」から感じるのはこの世界からの脱却や超克の意識である。閉塞した世界にあって人々が生きていけるのは、アイドル等の仮初の神がいるからであるが、その効力も一時的なもので絶対的ではない。ゆえに今求められているのは、何かを神として崇めるのではなく、新たな次元に自らを導くことだ。それはある人にとっては、革命なのかもしれないし、ある人にとっては悟りなのかもしれない。人という頭でっかちな、限られた知覚でしか生きていけない状態を脱し、鳥の視点へ、貝の視点へ、意識を移動させ人間社会を俯瞰することが神のいない現代を生きていくためには必要なのかもしれない。中津川の作品にはそういった想いが込められているように感じた。


④ 言葉と銃弾

事件がここまで話題になった要因の一つとして、凶器が自家製の銃であったことが挙げられる。一般人にも銃が作れてしまうという驚きは人々に危機感を与えた。

 日本人は、銃によって年間何万人もの死者を出しているアメリカ社会が未だに銃を手放すことができないことを愚かしく思っているかも知れない。日本は厳戒な銃規制のおかげで、銃による死者数は年間数人程度。人口比を考えてみても、天と地ほどの差がある。しかしどうだろう。銃をスマホに置き換えて考えてみると、銃を手放す恐怖を理解できるのではないだろうか。現代において、スマホは銃同然の、いやそれ以上の暴力装置であろう。法律やモラルや正義を盾にすれば誰もが合法的に人を社会的に殺すことができる。嫌いな人物のモラルに反した行為を撮影しネットに流したり、誇張と飛躍を織り交ぜた文章を投稿し、その人を糾弾したり。スマホの持つ携帯性と情報拡散能力は凄まじい。スマホとはいわば銃。反撃するための自衛手段でありリンチの道具でもある。

 我々は、インキャだとかニートだとか地雷だとかオタクだとか、言葉で勝手に人をラベリングし、箱に押し込んで攻撃し、共同体における地位を貶める行為を繰り返している。その負い目から、反撃を恐れ、過度にサンクションを働かせる。そうして排他的思考に陥った結果、より一層社会的弱者の生きづらい社会ができあがり、事件が起こる。この悲惨な負の連鎖を止めねばらならない。本来、言葉やスマホはラベリングの道具でも銃でもないはずだ。

 大塚昴の「みちしらべ」はSNS社会における言葉のあり方を考えた作品である。土の入った麻袋に金属製の杭が刺さり、先端に括り付けられた紙に日常の出来事と作者の考えが綴られ、SNSの中の言葉のような、荒削りな思いが土に突き刺さる形で強固に固定されている。これは人々がSNSに自分の感情や思いを吐露することでストレスを発散している様を模倣し、物質化している。攻撃性ばかりが高まり、日々大量に吐き捨てられる身のない言葉を、ネットから現実世界に取り戻すことが本作のテーマである。言葉とは本来、土の詰まった麻袋ほどの重みとそれらを貫く鉄の杭ほどの力強さを持ち、屹立した存在なのだと再確認させてくれる。


⑤ 平面と銃弾

もし彼が困窮の原因を直接的に作った母親へ銃をむけていたら、この事件は単なる個人の私怨として片付けられていただろう。もちろん母親に対して悲しみや絶望や憎悪はあっただろうが、全ての元凶を母親にのみ見出すのではなく、現教祖へ、国家そのものにまで視野を広げられたことが、ここまでのことを成し得た要因だ。彼は論理を敷衍して考え、暴力の構造を正確に把握し本質へ迫ることができた。

 この思考は現代人に失われつつある。歴史や伝統といった縦の意識が希薄になり、今、目の前にあるものしか見えなくなっている。情報化によってあらゆることが瞬時に伝達し情報が飽和した社会では、現状を把握するだけで精一杯だ。いわば思考が平面化した状態。スマホの画面のように、ただただ二次元的な記号が絶え間なく流れていき、本のように積み重なっていかない。平面が積層し、幅という立体を作らないのである。

 古瀬巽の「交差の接触点」で用意された、フィルムの貼られた木枠は平面化したこの世界を表しつつ、次世代の新しい平面世界を生み出している。平面が積層することによって一つの平面を作り出す油絵というメディウム表現は、単にキャンパス上に油絵の具を載せることにとどまらず、鑑賞者に木枠を持たせることによってその意味を拡張させた。それは、世界を平面の重なりとして捉えるということ。絵画から奥行きが取り払われて、絵画独自の唯一の特色である平面性が強調された抽象絵画を、より一層平面的なフィルムを通して見るということ。絵の具が重ねられることによって否応もなく生じる厚みは絵画の平面性を損なうものであるが、平面から奥行きや立体が生まれるというイリュージョンではなく、立体から平面が生まれるというイリュージョンが、フィルムにその像を結ぶことによって果たされる。フィルムには、絵画のみならず壁や床、キャンバスや絵の具の厚みが投影され平面に還元される。しかしまた、関係を相対化すれば、フィルムは立体となり、それをみる眼球の網膜が平面となる。これを繰り返しながら、平面は鑑賞者の意識にまで到達し、この知覚によって認識される世界は平面が積層したように見えるのである。平面性の拡張が我々の眼球ひいては網膜にまで及び、二次元的な表現が翻って鑑賞者を油絵の絵画世界へと引き込んだ。つまり、本作が作り出したのは、映画や写真や遠近法を用いた絵画のような、絵の中に広がる夢想された空間ではなく、この現実世界を鑑賞者ごと油絵の世界へと抱き込んでしまうような「平面空間」であったのだ。


⑥ 創作と銃弾

火薬が炸裂し、銃弾が射出される直前、彼は人生のゆく先を決めた。数々の災難が身に降りかかり、選択肢のない状態で生きてきた彼は、あの日、自らの意思で、自らのやるべきこと、進むべき未来を生み出した。これは誰にでもできることではない。

 我々は真に生きているのか。人生を主体的に生きること。それは社会で名を上げ成功することではない。何にも縛られない自由の身になることでもない。真に生きるとは、鑑賞者から創作者になることだ。

 古川ななこの作品は絵画、映像、小説と多様だったが、最も注目すべきは鑑賞方法にある。絵画や映像が展示された壁面に接するようにベンチが置かれ、その上に小説が置いてある。ゆえに、鑑賞者は自ずとベンチに座り、まるで自分が作品にでもなったかのように小説を読むことになる。小説から視線を上げると、他の鑑賞者が絵画や映像や自分を眺めているのに気づく。その読んでいる姿を含めて一つの作品となっていたのだ。作品の一部となった鑑賞者は小説を読むことでその作品世界を理解、拡張し、創作者としてそこに存在することになる。ベンチに座ることで初めてわかるが、ベンチの下に封筒が貼り付けられていて、そこには「生涯演者の善人」というタイトルの短い文章が綴られている。私はそれを読んでやはり私の解釈は間違っていないと確信した。自分で自分の人生を生きることへの憧れが書かれていたからだ。信仰を失い、伝統を失い、生きる意味をなくした我々にとって、人生を確信もって生きていくことは困難だ。しかし、だからこそ、受動的な漫然とした生活から脱し、創作者となることが今、求められている。


大阪・北新地心療内科の放火殺人事件、京都アニメーション放火殺人事件、秋葉原無差別殺人事件、京王線殺傷事件などなど、いつもこれらの劇場型犯罪を起こすのは孤立した男性だ。劇場型犯罪と称したのは犯人の目的が、自らの存在を認めてほしい、知ってほしいという心情からあえて注目を集めるための犯行であるように思えるからだ。彼らの中には一種のヒロイズムがあっただろう。この狂った世界を破壊し、亡きものとする。この歪さを世間に知らしめる。そんなヒロイズム。死刑になることを厭わず、自らと世界の救済のために行動する。恐れるのは、やがて怒りが風化してしまうのではないかということ。そんな不安が彼らを駆り立てた。

 私にはできるだろうか。日常の雑事に追われ、何も成せず、今抱いている怒りや不満や思いが霧散し有耶無耶になり、この社会に丸め込まれるのではないか。そんな不安が日々大きくなっていく。体も気力も衰えた時、この思いを持ち続けていられるかどうか。もし出来ないのだとしたら、今しかない、、、今やらなければ、、、。などと考えてしまう。事実として彼の行動が社会を変え、彼の存在は認められた。その厳然たる事実が目の前にあるのだから。

20██年█月█日██時██分。


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