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展覧会評・OLFACTORY CORTEX

沈丁花?梔子?金木犀?ともかくも甘く心地よい匂いが部屋に入った瞬間、香ってきた。いや、正確に言えば部屋に入る直前、視覚よりも先に嗅覚が匂いを捉えていた。それがステートメントで言うところの、「第一反応」であり「運命的邂逅」であろう。見ることなく予期された室内の情景は、鑑賞に少なからず影響を与えただろうし、鑑賞行為を操作し、再定義したかもしれない。嗅覚野を意味する「OLFACTORY CORTEX」と題された展示から予期した作品像とは少し趣が違い、確かに美術品の展示会場の匂いとしては独特であったが、作品自体は無味無臭であり、なおかつ匂いを連想させるものでもなかった。私はミスリードされていた。あの、甘い匂いは私の嗅覚を麻痺させるためにあったのではないか。部屋に入った時に感じた匂いの驚きは時間が経つにつれ薄まっていき、10分もすればほとんどその感覚は意識されなくなる。が、無意識のうちに匂いは鑑賞体験と結びつき、作品との関係、抱いた情動と記憶と結びついたことだろう。嗅覚野の鑑賞は光や音と違い、波動ではなく化学物質によってなされる。空気中を漂う揮発性の低分子が、人間の鼻腔の嗅神経細胞を刺激し、嗅覚野に電気信号を送る。その過程で、情動や感情を司る扁桃体や記憶を司る海馬を通過するため大脳辺縁系全体が刺激され、匂いには記憶や感情が結びつけられる。匂いが匂いとして認識される前に引き起こされる情動の変化は、本展覧会においてどのような鑑賞を促し、展覧会から帰ってきた今、思い出される記憶にどのように影響しているだろうか。

 会場に入ってすぐに映像作品が見える。カットバックを用いて、トマトの変容と髭剃りの進行とを交互に写し、両者を対置または並置している。画面右端には詩的な言葉が綴られ、映像に広がりを作っている。映像は繰り返され、冒頭の場面に戻った時、カミソリとトマトとが邂逅を果たし両者を結合させる。トマトを熱し皮を剥くことと髭を剃ることとが些か似た構造を持つことに気づかされる。映像から目を離し周囲を見渡すと、点在する黒い物体を見つけ、その後、異様な緑色の造形物を見つける。さらに歩みを進めると、カードゲームのような催しを見つけることができる。映像とランドマークと印象的な造形物、そしてカードゲームの催し。教室前面にはスクリーンに白ブリーフが投影されている。自らが異空間に足を踏み入れてしまったことに気づき、社会的な領域を超越した聖域、ゲーム内世界に足を踏み入れたのだった。

便失禁の治療用のための道具であったアナルプラグが、作品の題の中にもあるように「倒錯的な快楽のための道具」と成り果て、さらには大学の教室内に持ち込まれ、美術品として展示される時、「浴槽の弁」や「空からやってきた爆弾」、「石油の塊」、「臭いものにする蓋」、「天岩戸」etcになる、この一連の変容を含めた全てが星加の作品である。作品はテーブルの上やイスの隙間や天井など、会場のあちこちに点在する。マリオの中間ポイント、もしくはRPGのセーブポイントを通過していくように、作品を発見し、さまざまな言葉が貼り付けられたアナルプラグを見て回った。
 複製されたアナルプラグの差異と、多種多様な人間の肛門との共通性に滑稽なしぐさを感じるが、これは意図したことだろうか。レディメイドがアートワールド・展示空間に持ち込まれる時、経済や社会的な関係を超えて新たな価値や視点を提供する。肛門に差し込まれることを目的として作られたアナルプラグが規格化され、いくつかの大きさの違いはあれど(大・中・小のアナルプラグ)、大量複製されているということは、今日の社会においては我々の肛門も複製されたアナルプラグほどの差異しか持たないということを示している。肛門に限らずとも、資本主義社会において、同じ型で大量生産されたモノは翻って人々をその形にはめ込むのであり、個人を大衆の名もなき構成員として捨象する。そんな資本主義的な合理化の果てに、我々の肛門の形状は画一的に固定されてしまうのである。そんな世界に対する反抗こそが星加の作品の本質だと私は考えている。だからこそ、星加は大学という公的な場において、社会の中で隠匿され私的に使用されるアダルトグッズを展示したのである。さらに、教壇に立って白ブリーフを掲げ、書画カメラを用いて教室前面のスクリーンに投射するパフォーマンスによって、アナルプラグは題に記されているような視点と意味を獲得し、行為の不可解さと可笑しさによって社会へと深く切り込んだ。

横内の作品からは、Galactic Cafeによるアドベンチャーゲーム『The Stanley Parable』を想起せずにはいられない。表現の解体は全ての表現者の夢であり、目指すべき地点、悲願である。先鋭的な小説や映画が固定化された約束事を無視し、時にはメタへ介入しながら表現を破壊しようと試みるように、ゲームも先鋭的な表現が試みられてきた。『The Stanley Parable』を操作するプレイヤーは、ゲームシナリオに沿った正しい道をナレーションに案内されるのだが、この指示を無視することができる。すると途端にナレーションはゲーム内の操作されているキャラクターではなく、現実世界に存在するプレイヤーへと語りかける。ゲーム制作者の進ませたいルートとプレイヤーの進みたいルートとの折り合いと相違を経験し、何度も分かれ道を選択することによって対話し、メタ表現によって仮初の構造が破壊されてゲーム制作者とプレイヤーという関係が立ち現れてくる。ここにこそ、ゲームという表現の本質がある、と制作者のGalactic Cafeは考えたのだろう。
 横内の作品は、持ち帰ることのできる小さなカードとそれを拡大した紙を飾るカードスタント、象徴的な言葉の書かれた五枚の用紙からなる「イヴェント」である。他の作家が、立体・映像・インスタレーション作品を展示する中、パンフレットを見ると横内は自らの作品を「イヴェント」だと主張していることが分かる。その場で行われた一連の出来事、鑑賞者と創作者そして周囲の環境を含めたあらゆる要素の導かれた行為の総体として「イヴェント」は存在する。「ハプニング」との違いは、「イヴェント」はまさしくゲームのイベントのようにその偶然性があらかじめ決められていること。分かれ道の選択肢が提示され、その先に用意されたストーリーがある。「イヴェント」にとって鑑賞者と創作者という枠組みはもはや意味を持たなくなっていく。台本の用意された選択の偶然性の中で行われるパフォーマンスは、ほとんど儀式に近く、その場に特別な空間・領域を発生させる。現実の空間にあって質感を持った紙とインクとがゲーム内世界を立ち現すことができるのは、それが「イヴェント」だからである。鑑賞者を縛り、ゲームのナレーションのようにシナリオを遂行させる力がこの作品にはある。しかし同時に、決められたシナリオを破りたいというプレイヤーの避け難い欲望までも表現している。演劇性とゲームそして選択。そのどれもがあの場において結実され、展開されていた。

 私の引いたカードの裏に書かれていた、ゲームの勝利条件、敗北条件の記載は一見するとただのトートロジーだが、このイヴェント内においてはこの同語反復が妙な味わいを持っていた。勝利条件=勝利条件という式は当たり前だが真であり、推論も仮定も何も必要としないが、意外性を持って感じ得た。
 勝利条件・敗北条件の下には、ゲームの機械的な雰囲気から一転して人間らしいセリフで「人生はこんなもんさ。不満なら、ペンを持つことだな。」という言葉が書かれている。この文章を読む鑑賞者は一気に現実世界へと引き戻される。ゲーム内空間に組み込まれていた鑑賞者へ投げかけられた顔の見えない、次元の異なる唐突な言葉に戸惑う。そして、我々がゲームひいては人生の制作者だったことに気付かされる。最後の最後に、この作品は鑑賞者を「イヴェント」の与えるゲーム性から脱却させ現実世界へと帰還させたのである。

人工の芝で包装された冷蔵庫に、括り付けられたオレンジ色の運搬ベルト。それらが横倒しになって木の台座の上に乗せられている。印象的だったのは、冷蔵庫から伸びる電源コードが室内のコンセントへと差し込まれていたこと。冷蔵庫の稼働音は聞こえなかったため、電源は入っていなかったと思われる。突拍子のないレディメイドの数多のモノが思いもよらない形で結び付けられていることに驚かされた。
 関口はこの作品を「運搬 冷蔵庫神輿」と題しているが、私は神輿というより棺のように思えた。神霊の乗り物と、死者の乗り物という意味で考えれば近いかもしれない。冷蔵庫には運搬ベルトが取り付けられ、持ち運びやすいようになっている。だが、コンセントがついていたのはなぜだろう。神輿であれば、神様を乗せて地域を練り歩くから邪魔だろうし、もっと装飾的であった方がいいはずだ。なぜ冷蔵庫は通電していなかったのか。食料を低温で保存し、腐敗を遅らせることで食せる期間を長くする冷蔵庫は、時間を静止させることを目的として永遠不変を志向する。しかし、冷蔵庫は稼働していない。その機能を果たしていない。
 冷蔵庫を包む芝は植物であり日々揺れ動くが、生物の持つ動的な平衡が芝を芝たらしめている。生物は絶えず死に絶え、生まれ変わりながら一定を保っている。しかし、実際のところ、本作品の芝は人工の芝であり、プラスチック製の芝である。ホメオスタシスは機能していない。プラスチックの無機質で等質な肉体はいつまでも変わらずに静止している。この人工芝は生物の姿形を似せているからこそ、その異常な固さを感じさせ、静止した存在だと印象付ける。さらに言えば、木の台座の選択にはどんな意味があったのだろう。植物の幹の作り出す木目と、人工的な切断面、、、。
 関口の作品はモノとモノとが一見関連しあっているようで、容易には一つの意味へと帰結されない。モノがモノのままそこに佇み、組み合わされている。このような作品を語るのは難しい。私の基本的な批評姿勢として、作品のメディウムから全ての思考を出発するから、そのメディウム自体の含意するところを見定めなければ批評が始まらない。関口の作品を鑑賞して、私は自身の批評の限界を思い知らされた。もちろん、それぞれのモノ同士の関係を強引に言葉によって関係づけていくことは一応できるが、その行為が実態の作品とかけ離れていくことは必然である。言葉と言葉、モノとモノとの結びつき方は根本的に異なるのだろう。言葉が画面や紙といった二次元世界にあること、モノが空間や場所といった三次元世界にあることから、単にモノとモノとを繋ぎ合わせるように言葉を紡いでいくことは甚だしい齟齬を生み出しかねない。だからこそ、今回のような作品への言葉からのアプローチは決定的に異なる視点が必要だろう。このような作品においてこそ、「嗅覚野」の感覚が頼りになりそうだ。関口の作品から感じられる匂い、目で見て視覚を元にした思考のもっと前にある、第一の経験。作品にすぐに意味を求めてしまう鑑賞者の悪癖を指摘するかのように、嗅覚による鑑賞が誘導されていたのだ。
追記
冷蔵庫が稼働する。二度目の鑑賞で冷蔵庫が稼働するのを見た。一日目もかなりの時間滞在していたが、コンセントは刺さりつつも稼働音は聞こえていなかった。展示最終日、私はけたたましい轟音が鳴り響くのを聞くことができた。コンセントを入れては外す。通電された冷蔵庫は起動し、振動を起こし、辺りを僅かに熱する。空気を振動させ、鑑賞者の身体を揺らし、思考を揺さぶる。感覚器官は酩酊し、得体の知れない造形と轟音に頭を支配されていると、ふとコンセントが抜かれ、作品と鑑賞者とが沈静化する。脈動する物体は、いつその棺から怪物が飛び出してくるのだろうと想像させた。

匂いは生物の代謝の中で生まれる。匂いのあるものは押し並べて生物の存在を示唆している。鉄棒の匂いは、人の手から出る皮脂と鉄とが反応した結果、香るのであるし、生物の身体によってできる料理もまた、どの生物を使うかによって多様な香りを作り出す。人の手によって作られた作品と展覧会は、創作行為という身体の代謝を伴い匂いを発していた。作品自体の素材は無味無臭であるが、そこに作家の「血と汗」が刷り込まれたからこそ、臭いを発していた。それぞれの作家の情動と記憶が深く結びついた匂いが同じ空間に展示されることで混じり合い一つの展覧会を成形したのだ。展覧会場に入った時、入る直前に香ったあの匂いは既製品のアロマや芳香剤などではなく、あの場でしか感じ得ない匂いであったのだ。二度の鑑賞から、そしてその鑑賞を匂いを通じて思い出すことによって匂いの正体へと、嗅覚野へとたどり着いた。

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