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奥武島の海とてんぷら

ぽっかり浮かぶ奥武島の海に2人のダイバーがポッチャリと頭を沈め、すぐにポコリと浮き上がった。
沖縄県南城市の奥武島は島であるが長さ150mの橋で陸続きの一周1.7㎞の小さな島だ。
先ほどから隣で夫が口のまわりをテカテカにしながらてんぷらを次から次ぎに頬張って満足げな薄笑いを浮かべている。
中本鮮魚てんぷら店で買ったばかりのてんぷらである。

海ではダイバーがポッチャリとポコリを繰り返す。スクーバーダイバーになるための講習と見受ける。2人のうちの1人はインストラクターだろう。
もう少し沖に行くと可愛いカクレクマノミが住んでいる。目が合うとキョトンとおちょぼ口をする可愛いヤツがいたんだ。かつて私も奥武島の海でスクーバーダイビングの講習を受けた。10年以上前の出来事である。
言わば奥武島は私にとってダイバーへの一歩であり、豊かな日本の海や異国の海を覗き見する生活の始まりの場所と言っても過言ではない。

またポコリとダイバーが海から顔を出した。息をするためのレギュレーターという道具を口から外し、身振り手振りで説明するインストラクターの話をウンウンと聞いている。
今、私が見ている光景は私が体験した景色と重なる。昨日の事のように思えてならないのは年を取ったからではなく、海に頭を沈める恐怖や海に対する未知な興味を持っていた当時の気持ちを奥武島の海が思い出させてくれたからだ。
当時、奥武島はてんぷらの聖地だなんて知る余裕はない。奥武島の海に向き合い、与えられたダイビングスキルの課題をこなすだけで精一杯だった。

奥武島がてんぷらがうまいの島だと知ったのは、ずっとあとの事である。
島には三件のてんぷら屋があり、特に橋に近い中本鮮魚てんぷら店は、てんぷらを買い求める観光客で長い行列を作っていた。
味付きの厚い衣が特徴である沖縄のてんぷらは種類が豊富で目移り必至だ。行列に並ぶと、てんぷらのタネが書いてある注文表が配られる。
何をいくつ欲しいか自己申告する注文スタイルだ。
店の中では2人の女性が大量の揚げ油の前で次から次とてんぷらを揚げていた。秋も終盤の過ごしやすい季節とは言え、大量の油を相手に体に堪える仕事だ。
彼女たちのおかげで私の目の前には熱々のてんぷらが並ぶ。
特にモズクと魚のてんぷらがおいしい。いや、イカもイモもうまい。全部うまい。
夫が食べた魚のてんぷらと私が食べた魚のてんぷらは種類が違った。どんな魚のてんぷらかは食べてみないと分からない。だから商品名は魚のてんぷらなのかもしれない。
こんなロシアンルーレットは大歓迎だ。

奥武島の海があっておいしいてんぷらがある。
幸せこの上ないとはこの事だ。

沖縄でスクーバーダイビングのライセンスを取る提案をしてくれたのは当時付き合っていた夫である。相変わらず口のまわりはテカテカでどうしようもない。
しかし、夫の名案で私は奥武島を知ることができた。奥武島と縁を作った夫は影の功労賞だろう。
ひとつ残った魚のてんぷらは夫に譲ることにした。