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3.11 あの日の記憶

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こんにちは。nikoおばさんです。
今回は2011年3月11日に起きた「東日本大震災」の記憶について書いてみたいと思います。
ちなみに、私は仙台市在住ですが、津波の被害にはあっていません。
家族や親せきに亡くなった人もいません。
そのような描写は出てきません。
むしろ、少しコミカルな文章になっていますので、読んでつらくなることはないと思いますが、個人判断でお願いします。
それから、13年前の記憶ですので、記憶違いの部分も多々あると思いますが、あくまでも私の記憶をつづっていますので、ご了承ください。

(登場人物)
  私:当時41歳、専業主婦
  夫:当時40歳、会社員
  娘:当時11歳、小学5年生
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午後2時46分


その日はとてもおだやかな天気で、晴れてぽかぽか陽気だったように記憶している。
私はダイニングテーブルに子供会の資料を広げて作業をしていた。
当時、子供会で行っていた資源回収の担当だった。
カタカタ・・・軽い揺れを感じた。

「またきた」
少し前に東北地方で起きた強めの地震の余震が時々あったので、このときもまた余震がきたと思った。
急いで、買ったばかりの40型のテレビに駆け寄り、軽く押さえた。
テレビ台から落ちたら大変だ。

次の瞬間、
ゴゴゴゴゴゴ、ガタガタガタガタ、
今まで経験したことのないすさまじい揺れ。
ガシャーン!ガシャーン!
食器のぶつかる音、落ちて割れる音、とにかくぐちゃぐちゃになる音。
私は必死にテレビにしがみつき、テレビを守った。
よく頭を守れっていうけど、とっさに守ったのは買ったばかりのテレビだった。
テレビ台に乗ってるだけのテレビにしがみついてもなんの意味もない。
テレビ台ごと体が揺さぶられる。

「きゃー!いやー!やめてー!おかーさーん!」
家には一人だったけど、人は本当に死にそうになるととっさに「おかーさーん!」と叫ぶんだと知った。
長い長い揺れだった。
実際何分ぐらい揺れてたのか知らないけど、ほんとうに長かった。
頑丈なマンションに住んでいたが、崩れるかもと本気で思った。

揺れが収まる。
正確には弱く揺れ続けていたが、自分が揺れに酔っていたのかもしれない。
しばらく放心状態だった。

「なにいまの?なにがおきたの?」
当然停電していたし、当時の携帯はガラケーだ。
情報はまったくない。

家の中を見渡せば、家具という家具が移動している。
倒れているのではなく床をすべって移動していた。
高いところに置いた物はすべて床に散乱している。
あ、テレビは無事だった。(私が守った)
体が震えてうまく動けなかったが、なんとか立ち上がり他の部屋も点検する。

ドアが開かない部屋がある。
クローゼット代わりに使っていた部屋で、入ってすぐ左側にハンガーラックを置いていた。
そのハンガーラックが倒れて、ドアをふさいでいる。
部屋のドアはすべて内開きだった。

教訓:内開きのドアの近くに倒れるものは置かない!

「あっ、そうだ。玄関をあけなきゃ。」
とっさに思い出し、避難ルートを確保した。
少し玄関の外に出ると、2件隣の部屋の女性が不安そうに廊下に出ていた。
妊婦さんのようだったので、大丈夫ですか?と声をかけた。
大丈夫そうだったので家に戻り、また地震が来たら嫌だからトイレに入っておこうと思い、トイレを開けた。

床がびしょびしょで、芳香剤のすごい匂いがする。
ただの水じゃない。
芳香剤が混ざってベタベタしていた。
地震の揺れでタンクの水(と便器の中もかも)はほとんどあふれ、床に置いていた液体タイプの芳香剤が倒れてこぼれたのだ。

教訓:トイレの芳香剤は倒れてもこぼれないタイプにしよう!

とりあえず、床はそのままでおしっこをしようと、パンツを脱いだ。
出血していた。

「え?なんで?なんの血?」
生理になる予定はなかったのに、不正出血したらしい。
巨大地震に驚いた体が、びっくりして出血を起こしたのだ。

「そんなこともあるんだな」
パンツを交換したいが、パンツはクローゼット代わりの部屋の中だ。
体重をかけてドアをゆっくり押し込んだ。
倒れたハンガーラックをぐいぐい押して、なんとか部屋に入りパンツをゲットして、トイレを済ませた。

この時点では、とりあえず全体のチェックをしただけで、片付けるエネルギーはない。
まだ何が起こったのかも全然わかっていない。
でも、余震はひっきりなしに起きてて、たえまなく揺れていたので、まだまだ恐怖でいっぱいだった。

「とりあえず裏の公園に行ってみよう」
マンションのすぐ裏に公園があって、そこに人が数人集まっていた。
誰かと話をすることで少し心が落ち着いた。
ベンチには遅いお昼ご飯の途中だったのか、カップ焼きそばを持って小さな子供に食べさせるお母さん。(泣いていた)
すべり台の上には高校生くらいの男子2名。
スマホのようなものを手に持っていて、その男子が「震度7だってよ!」と会話していた。
震度7・・・・・生まれてはじめて聞いた。

「ここで?今?震度7の地震が起きたの?!」
大変なことが起きたのはわかるけど、実感がないというか、まだぼーっとしている。

ふと、公園わきの道路に目が行った。
女性がたくさん同じ方向に歩いていっている。

「はっ!!!子供を迎えに行かなきゃ!!!」
忘れていた。
母親失格だ。
普通、母親ならまっさきに子供の心配するはずだろう。
それほど気が動転していたのだ。(そういうことにする)

私には当時小学5年の娘がいる。
小学校ではこういう場合、全校生徒が校庭に避難し、迎えにきた保護者に
一人ずつ引き渡すルールになっている。
今日は避難訓練ではない。
訓練が現実になったのだ。

教訓:なるべく早く学校に迎えに行こう!



奇跡その1「4トンがいなかった」


私も小学校へ急いだ。
小学校へは歩いて5分の道のりだ。
校庭に着くと、お母さんたちがたくさん集まっていた。
子供たちは全員、きれいに整列してしゃがんでいる。
みんな自分の親が迎えにきたかを必死に探しているようにキョロキョロしている。

私も必死に娘を探す。
あ!いた!
娘とも目が合い、お互いほっとする。
(遅くなってごめん)
心の中でつぶやいた。

まだ受け渡しは始まっていないようだ。
顔見知りのお母さんと少し話をする。
その間も余震はずっと続いていた。
ふと、校舎に目をやる。
その小学校はL字型に校舎が建っている。
東西と、南北。
どちらも4階建てだっただろうか。
二つの建物で被害の大きさが違っていた。

南北のほうはあまり目立った被害はないようだったが、
東西のほうは階段部分の壁が崩れ、ぽっかり穴が開いていた。
東西の校舎は1階に給食調理室、図書室などがあり、
2階に職員室、3階に5年生、4階に6年生の教室があった。

「東西に激しく揺れたのかなぁ。倒壊しなくてよかった。」
あとで娘が言うには、教室や階段はめちゃくちゃで、いろんな物を踏みつけながら避難したらしい。
ほんとうに誰もケガがなくてよかったと思う。

娘の担任は若い男の先生だった。
その先生がさっきから、その東西の校舎と生徒の間を行ったり来たり走っている。
授業中だった生徒たちは、着の身着のまま避難したので、靴は上履きのままだし、当然アウターも着ていなかった。
東北の3月はまだまだ寒い。
寒さに震えている子供たちのために、先生は校舎の中にアウターを取りに行っているのだ。
何度も何度も。
もう一度大きな揺れがきたら、倒壊するかもしれない校舎に。
泣きそうになった。
ほんとうにその先生には感謝している。

のちに聞いた話では、地震発生時、4階の6年生たちは全員、卒業式の練習のために体育館にいたらしい。
その学校は、各学年120名ぐらいいたのではないだろうか。
6年生ともなれば、体も大きく、1人40キロだとしても、

40×120=4800(4.8トン!!)

あの瞬間、4トンもの人間が4階にいなかったのは、奇跡としか言いようがない。
もし、6年生が普通に教室で授業を受けていたら・・・

東西の校舎はその後、娘が卒業するまで使われることはなかった。



奇跡その2「電話がつながった」


さて、小学校で無事娘と再会し、上履きでランドセルも持たずに帰宅した私たちだが、そこからの記憶はあいまいだ。

娘が帰る前だったか、後だったか、突然、吹雪になった時間があった。
震災のあった日はおだやかな晴れだったのだが、地震から数時間たったころだろうか?
急に吹雪になったのだ。
それほど長い時間ではなく、吹雪はおさまり、また晴れた。
今思えば、津波の影響だったのかもしれない。

娘と合流した後、次に考えなければならないのは夜の過ごし方だ。
地震発生が2時46分、3月の日没は5時頃だろうか。
暗くなるまでにあまり時間はなかった。
この時はまだ、真っ暗闇というものが想像出来なかったのかもしれない。

避難所はそう遠くなかった。
小学校も中学校も歩けば5分、どうしても行かなければならなくなったら行けばいいか、ぐらいの感覚だったのだろう。
家の中はまだ何も手付かずの状態だし、また大きな揺れが来たら危険かもしれない。
マンションの住人の中には、自分の車の中で夜を明かすと言う人もいたので、私たちもそうしようと思った。

でも、この判断は間違いだった。

私は車に乗れない。(完全なペーパードライバー)
夫は車通勤ではないので、車は駐車場にあった。
実はどのタイミングかは忘れたが、私はこの車を移動していた。
地震のあと、マンションの駐車場で住人と話をしていたら、ふと自分の車が心配になった。
マンション側の駐車場に停めてあるので、マンションの外壁が崩れたら直撃するなと思ったのだ。
そう言ったら、住人の方がご親切に「うちの駐車場空いてるので、よかったらどうぞ」と、また他の住人の方が「私でよければ移動させましょうか」と言ってくださったのだ。
「お願いします!」と何も考えず、車を移動させてしまった。

この判断も、間違いだった。

この時点で、夫とは全く連絡がついていない。
電話はつながらないし、メールを送っても相当な時間差で届くような状態だった。
何度も言うが、当時はガラケー、LINEはない。
夫は電車で1時間の職場にいた。
当然、電車は動いていない。
今夜は帰ってくることはないだろうと思っていた。

車って「いざとなれば寝泊り出来る便利なもの」
なんて思ったのが大間違いだった。

「冬に暖房付けずに車に乗ったこと、あります?」
「地震で揺れてる最中に車に乗ったこと、あります?」
「真っ暗闇の中で、自分の車を探したこと、あります?」

日が落ちればまだまだ暖房が必要な3月。
車の中も寒いのはわかっていた。
ガソリンは燃費をよくするために最低限しか入っていない。
(実はのちにこれも後悔することになる。ガソリンを入れられたのは
相当あとの話だ。スタンドに何時間も並んで。)

車の暖房を使うことはできない。
家から毛布とホッカイロと食べ物を持ち込み、その移動させた車の後部座席に娘と乗った。

教訓:車のガソリンを節約するのは、ほどほどに!

まず最初に後悔が少しよぎったのは、「揺れ」だ。
断続的に余震の揺れは起きていて、車の中ではその揺れが2倍にも3倍にも感じた。
これが死ぬほど気持ち悪い。

車の乗り心地がいいのは、タイヤに空気が入っているからだし、振動を和らげる部品(名前は知らない)が付いているからだ。
その上にいると、震度1が震度2か3に感じるとは予想出来なかった。
とにかくすべての揺れを感じるのだから、ずーっと恐怖の中にいた。

次の後悔は、「寒さ」だ。
暖房がない車の中がこれほど寒いとは思わなかった。
どんどん足先が冷えていく。
これは絶対しもやけになるな~と思った。
これが朝まで続くのか、毛布やホッカイロではとてもしのげそうもなかった。

「今から避難所に行こうか?家の中に戻ろうか?」
車に乗って比較的早い段階で、本当は迷っていた。

「すごい揺れるし、すごい寒いし、でも避難所なんて行ったことないしな、
他の人も車にまだいるしな、とりあえずは安心だしな、でも凍死しないかな、大丈夫かな・・・」
自他ともに認める優柔不断、決められない。

グズグズしているうちに、辺りは真っ暗闇。
う、動けない。
家に戻るのさえ難しいほどに真っ暗で、ほんとに明かりってありがたいものなんだな~としみじみ感じた。
結局、動くに動けず、じーっと揺れと寒さに耐えているしかなかった。

教訓:寒い時期に車に避難するのはおすすめしない!

・・・と、その時。

電話が鳴った。
夫からだ。うそっ!!

夫「今どこにいんの?家に戻ってもいないし、避難所で呼び出してもらってもいないし、車はないし、まさか運転したの?」(いやまさか)

どうやら会社の人の車に乗せてもらって何時間もかけて戻ってきたらしい。
家には誰もいないし、車も本来置いてある場所にないから、近くの避難所を2か所回って探してもらったけど、いないと言われ、途方に暮れて電話してみたら奇跡的につながった、ということみたいだ。

グッジョブ!旦那!
よく戻ってきてくれた!
車を移動したことを説明し、なんとか家族は再会を果たした。
正直、ほっとした。
やっぱり一人より二人、心強い。
探し回らせてごめんよー!

教訓:家以外の場所に避難したときや、車を移動したときは、玄関ドアに張り紙をするなどして伝えよう!(玄関のカギは閉めてね)

それから夫と相談して、避難所に車で行くことにした。
毛布や食料を追加し、小学校ではなく、中学校に向かった。
なぜなら、中学校のほうが新しかったからだ。
(小学校の壁が抜け落ちてるの見てるし)

時間は何時だったのか、覚えていない。
真っ暗闇の住宅地を車のヘッドライトのみで走る恐怖。
人がいても明かりを持っていなければ絶対に気付かないし、曲がり角を曲がり損ねれば住宅を傷つける。
慎重に慎重に、少しずつ進み、なんとか中学校の校庭に着いた。
校庭には整然と車が並んでいて、空いてる隙間に車を停めた。

車から降りて空を見上げたら、そこには満点の星空があった。
真っ暗だとこんなに星が見えるんだ。
その時はそう思ったが、今では津波で亡くなった方たちが星になったのかな、なんて思う。
(この時点でもまだ、津波のことは知らない)
この日の星空は、今でも忘れられない。

中学校に入ると、受付の人に校舎の廊下にあるちょっとした広場のような場所に案内された。
体育館はもういっぱいだった。
空いているスペースに適当に座って、何をすることもなく時間を過ごした。
飲み物が1家族に1本支給されたような記憶がある。
毛布も支給されたと思うが、硬い床の上で横になってみても、ほとんど眠れなかった。
ただ、広場にはひとつストーブが置かれていて、寒いときは近くにいって温まれた。
見ず知らずの女性が温かいお茶をわけてくれた。
あのまま車にいるよりははるかに良かった。

教訓:明るいうちに迷わず避難所へ行こう!

時々来る強めの地震におびえながら、まんじりともせず(少しも眠れず)朝を迎えた。
明るくなっただけでも緊張が和らいだ。
これからどうすればいいのか、どうなるのか、詳しい情報もない中で、みんなそれぞれ帰宅する人や避難所で過ごす人、様々だった。
とりあえず、家の中を片付けようか、と私たちは一旦帰宅した。

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ここまでが、あの日、3月11日の私の記憶です。
このあと、電気やガス、水道が使えない、食料がない、ガソリンがない、
と何もない中で生活するのは本当に大変でした。
本当はそこまで書こうと思ったのですが、正直あまり覚えていません。

家があっただけでも恵まれています。
家族が全員無事だっただけでも幸せです。

毎日のようにスーパーやコンビニに通って、並んで買えるのはお菓子だけでした。
電気は2日後ぐらいに復旧しましたが、ガスは1~2か月かかりました。
スーパー銭湯の番号札を並んでもらい、時間になったらお風呂に入れましたが、お湯はたくさんの人のあかで汚れ、とても入れる状態ではなかったし、
一人10分の時間制限もありました。
学校は隣の小学校を間借りして再開され、その後自分の学校へ戻りましたが、体育館をクラスごとに仕切っての授業でした。

普通の生活に戻れたと実感したのはいつだったのか。
何をどうやって乗り越えてきたのか、よくわかりません。
生活が元に戻っても、あの経験を忘れることはありません。
もう二度とあのような大災害が起こらないことを祈っていますが、この経験を教訓にして、少しでも被害を少なく出来ればいいなと思います。

何不自由なく平穏に暮らせることは、決して当たり前ではありません。
日々、感謝して、悔いのないように生きたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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おわり

(追記)
2024年元旦に起きた能登半島地震で、亡くなられた方、被災された方に
心よりお悔やみ、お見舞い申し上げます。
そして、一日も早い復興をお祈りいたします。

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