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忍辱 第七場

■第七場
 愛実は空想している。大ホールの観客の万雷の拍手に迎えられる自分。観客の中に拍手する哲修がいる。愛実は観客に一礼しながら、にこりと哲修にほほえみかける。グランドピアノの前に座ると、きりりとした表情に一変。ラフマニノフ作のピアノ前奏曲 嬰ハ短調「鐘」を弾きはじめる(他のピアノ曲でも可だが、悲劇的な展開を感じさせるメロディーが望ましい)。
 唐玄が登場。父の姿を見て笑顔の哲修。父も哲修を見て微笑。しかし真顔に変わって、突然靴で激しく床をたたく。その音が響いた途端、ピアノの音が消える。愛実は、鍵盤を叩いてるのに、音が出ないことに焦る。ざわざわする観客。愛実は唐玄の姿に気づき、激しくおびえる。薄気味悪く笑う唐玄。
 前場から6日後の土曜日、夕刻。雨。中央から下手は倫幸の自宅の客間。広い和室。臨時町内会が開かれている。倫幸を中心に、全員半円座で座っている。倫幸の下手側隣は時太郎、信世、愛実の3人。倫幸の上手側隣は鈴木、大杉、手塚、衣川。彼らの後ろ(横でも可)に渡辺、木村、阿部。阿部は腕に軽く包帯(長袖の服ならば、見えなくてもよい)。他何人かの町内会員(兼ね役・エキストラ登用可)。皆重苦しい顔。
 倫幸のみ、議事進行役として起立している。
 上手奥に、粟田家の唐玄の書斎。非常に狭い部屋の中に机と椅子。机には引き出しがついている。机の上にはティッシュボックス、引き出しの中には小型のナイフ。傷口ケア用の塗り薬。
 町内会。静寂の中、スマホの着信音がけたたましく響く。幾人かは身体が反応、音の出場所を目で探す。阿部が慌ててスマホの電源を切る。
阿部 「すみません。」
 張り詰めた空気がやや緩んだのを見て、鈴木がおずおずと発言。
鈴木 「‥今、会長さんと井上さんからお話があった、その、粟田さん、‥犯人、かもしれない人のことですけど、‥まず警察に相談されてみてはどうでしょうか? 」
倫幸 「それはもう、とっくにやっとる。‥警察は、参考情報として聞き留めておく、と言ったきりだ。すぐには動いてくれそうにない。」
鈴木 「そんな、‥被害者が言ってるのに? どういうことなの? 」
倫幸 「わからんな。」
 時太郎が軽く右手を上げ、立ち上がる。
時太郎 「‥娘は、粟田さんの背格好、肉付きや背丈がまるでシルエットのように犯人そっくりだったと。あと、唇の右上にある小さなホクロ(演者の容姿によって台詞変更可。但しフードで顔の上半分は隠れていたことに注意)、これも一致したことを説明したのですが、‥警察は容疑としては不充分、と言ってました。警察がこんないい加減なところだとは思わなかった。」 
倫幸 「みなさん、警察の捜査をここでああだこうだ言っても仕方ありません。‥今、確かなのは、犯人の疑いが濃い人がこの町におって、今も自由に、わしらの町をうろつき歩いとる。ひょっとすると、次のターゲットを狙っとるのかもしれん。それに対して、いかに自分の身、家族や友人の身を守るか! そういうことだと思っとります。」
 時太郎は座りながらうなずく。日頃明るい信世も、厳しい顔でうなずく。
 犯人から狙われる恐怖が、町内会全体を包む。みな沈黙。
 唐玄は、頭を抱え、苛立たしそうに、肘や足で机を何回か叩く。
倫幸 「‥よって、町内会員の皆さんに提案します。 一連の事件を受けての、わが町内での防犯活動ですが、‥粟田唐玄の行動の監視、を中心に行うこととしたい! 」
 監視、という言葉にざわめく町民。
 唐玄は、ナイフを手に持ち、刃を目の前に近づける。
 時太郎がゆっくり立ち上がって発言。
時太郎 「みなさん、監視という言葉に驚かれるのも無理有りません。でも今は非常の時です。‥ご存じの通り、わたしの娘は刺されました。父のわたしが家族を守れなかったことの悔しさ。 ‥わたしは皆さんを同じ思いにさせたくない! ‥その一心です。」
 町民のざわめきが静まる。渡辺、木村、阿部は周りの人の顔色をうかがっている。
 唐玄は、ナイフの切っ先を自分の側頭部に当て、少しずつ力を入れ、ぐりぐりさせながら、自分の頭皮をえぐる。歪む顔。ぬらり、と血が頭皮を濡らす。唐玄はナイフから手を離す。肩で息をする。手が震えている。険しい表情。
倫幸 「もちろん、監視といっても無茶なことはしません。わしらは警察ではないですからな。‥やつの家を見張って、外出するときは、あとをつける。動きに不自然なところがあったら、すぐ不審者情報として警察に通報する、それだけです。」
 唐玄は、血の付いたナイフの先端と自身の側頭部をティッシュで拭きとる。傷口を触る痛みで顔が歪む。ティッシュにべっとりついた血をじっと見る。ナイフは机の上に置く。
 渡辺が挙手して立ち上がる。
渡辺 「あの、会長さんいいですか? ‥そうはいっても、犯人はナイフ持ってるんですよね? それに無差別に人を刺して。頭がおかしい人だと思うんですよ。そいつが、わたしたちに襲い掛かってくる危険もあるわけですよね? 」
大杉 「そうですな。‥気違いは、何しでかすかわからん。」
倫幸 「そこなんですが、防犯スプレーを町内会の会費で購入しようと思います。各グループごと一つずつ。合計3万5千円ほどになりますが。‥皆さんの同意をいただきたい。」
渡辺 「ナイフで襲ってくる人を、スプレーなんかで防げるんですか? 」
倫幸 「中身は催涙液ですからな。吹きかけるだけで相手は目から涙が溢れでて、襲うどころではなくなります。」
渡辺 「そう言われても、‥こわいわよねえ。襲ってくる人に、落ち着いてシュッって出来るものなのかな? 」
木村 「ねえ、それと、犯人ってかなり力が強い人みたいなんですけど、いきなり体当たりとかされたらどうなるの? こわい、‥なんで警察は動いてくれないの? 」
時太郎 「警察が動かない理由は先に言った通りで、娘の証言だけでは不充分、ということでした。」
木村  「はっきり、強く、警察に言っていただきました? 」
時太郎 「もちろんですよ。」
 木村は、やや詰め寄るような口調で。
木村 「それで動かないって。‥ありえない。変よ。‥やっぱり、もっと、はっきりと警察に言えばよかったんじゃありませんか? 」
時太郎 「だから、はっきり言いましたって! 」
 木村は時太郎の怒声に、一瞬びくりとするが、怒りがこみあげてくる。
木村 「‥伝わってなきゃ、意味ないじゃありませんか! ‥そのために、わたしたちを危険なことに巻き込むこと、どうお思いなんです!? 」
阿部 「お願い、あまり大きな声出さないで。頭がキンキンする。‥あのこれ、いつ終わるんでしょう? 」
倫幸 「まあまあ皆さん! 色々言いたいことはあろうが、警察はわたしたち一人一人を守ってくれるわけではない。自助努力もせにゃならん。それが現実なんです! だから、今は町の皆で団結して、犯人に立ち向かわんといかんのです! ‥そりゃあ、わたしだって怖いですよ。相手は気違いですからな。でも気違いをこの町にのさばらせる方がもっと怖くないですかな? 次の被害者が出てからでは遅い! ‥どうか、わかっていただきたい。」
 倫幸は深々と頭を下げる。場はしばらく沈黙。
 唐玄は頭の傷に塗り薬。血の付いたティッシュは机の上に置く。
 手塚が挙手して、立ち上がる。
手塚 「会長さん、ちょっといいですか? ‥やっぱり、ちょっとおかしくないですか? 」
倫幸 「何が、ですかな? 手塚さん? 」
 倫幸は、やや気色ばむ。手塚は腕組みして考えながら、落ち着いて話す。探偵を気取っているようにも見える。
手塚 「いや、防犯活動の必要性はわかるのですけど、‥粟田さんを犯人と決めつけて、監視するというのは、‥ちょっと軽率ではないですか? 実際、プロの警察は怪しいと思ってないわけですしね。‥そこで井上さんにお聞きしたいのです。あなたたちは、粟田さんが犯人という確証はあるのですか? 」
知世 「わたしは、娘を信じてます。」
時太郎 「愛実は粟田を見て、はっきり犯人だと言ったんですよ。」
手塚 「なるほど。‥では愛実さん、本当に粟田さんだったんですか? 確証はありますか? 」
 愛実は、突如指名されて、うろたえる。
知世 「遠慮してくれませんか手塚さん。娘は襲われたんです。まだ生々しい記憶で頭の中がいっぱいなんです。思い出させるようなことしないでください。」
大杉 「手塚さん、愛実ちゃんがウソついてるわけなかろう? 」
手塚 「いやでも、これは重大な問題ですよ! ‥もし、粟田さんが犯人でなかったら、わたしたちは何の罪のない人を付け回すことになる。いわば冤罪行為です。‥そうだ、阿部さん、あなたも襲われたのでしたよね? どうなんです? あなたは粟田さんが犯人という確証はありますか? 」
 阿部は、おびえながら、小声で話す。
阿部 「‥わたしは、よくわからない。‥犯人ぽい服装の人を見て、すぐ、逃げたから。‥でも、犯人はわたしを追いかけてきて。」
 阿部は襲われた記憶が蘇り、震える。倫幸は、ややうんざりした口調で。
倫幸 「手塚さん、あんたもう少し被害者の心を労われんもんですかな? それに、‥じゃああんたは、どうすればいいと? 」
 手塚は腕組みして少し考える。
手塚 「‥むろん、防犯活動はやります。町の見回りは必要だとわたしも思います。‥ただ重点は、粟田さんではなく、二度の犯罪が行われた公園の周囲。そして、‥粟田さん一家も仲間に入れて防犯活動を行うことです。‥だいたい、彼だって町内会員なのでしょう? なのに、この場に呼んでもないなんて‥。」
知世 「そんな! 」
鈴木 「手塚さん、犯人と一緒に防犯活動なんて、‥聞いたことない。馬鹿げてますよ!? 」
手塚 「どちらが馬鹿げてるんですか? 確証もないのに、人を犯人扱いすることの方ではないのですか? 」
鈴木 「‥でも、‥でも粟田さんが犯人らしいことを、聞いてしまった後ですからねえ。‥一緒に活動なんて無理ですよ。」
倫幸 「手塚さん、あなたの言いたいこともわかる。だがね、町のみんなは不安なんです。いつ自分が襲われるか、かわいい娘や息子が襲われたらどうしようか。‥不安でたまらんのです。」
手塚 「みなさん不安なことはわかりますが、‥その不安を消すためなら、何をしてもいいってことではないでしょう!? 」
倫幸 「あいつは犯罪者だ! 気違いだ! 」
手塚 「確証もなしに断定はよしてください! だからわたしは、はっきりさせる必要があると言ってるんです! ねえ愛実さん! 本当に粟田さんなんですか? あなたを襲ったのは!? 」
 愛実は下を向き、静かに泣きはじめる。しばらく場は沈黙、やがて愛実はぽつりぽつりと語りだす。
愛実 「‥わたしは、あの日、‥いきなり襲われて、‥身体をがっしり掴まれて、刺されて、‥血がたくさん出て、腕が真っ赤になって。‥神経まで傷ついちゃったから、腕に後遺症が残るだろうって医者に言われた。‥腕が、指がもう思い通りに動かない。‥ピアノ弾くことも、‥できない。‥ピアニストになること、小さい頃からの夢、‥だったの、に。」
 そう言うと下を向き、すすり泣く愛実。知世はしっかり娘を抱く。周囲は愛実に同情。鈴木は自分の目の涙をおさえる。しかし手塚はため息。
倫幸 「手塚さん、もう充分だろう? 我々は粟田を監視する! 」
手塚 「結局、粟田さんが犯人かどうか、何もはっきりしてないじゃないですか? どうして皆さん、愛実さんが泣いたくらいで納得できるんですか。 」
鈴木 「手塚さん! 今のはひどすぎます! 謝ってくださいな。ピアノは愛実ちゃんの夢だったんですよ。それを泣いたくらいだなんて。‥よくそんな言い方ができますねえ!? 」
手塚 「あなたがたは問題を混同している。ぼくが求めているのは真実で、愛実さんの気持ちではない。‥ぼくには、あなた達がわからない。同じ行動はできません。‥失礼します! 」
 手塚は席を蹴って、その場を出ていく。隣の衣川亜実も一礼して静かにその場をでていく。
 吹美果が小皿にリンゴを盛って、唐玄の書斎の扉をノックして、入る。
吹美果 「お父さん。リンゴむいたの。食べてね。 」
 吹美果は、小皿を机に置く。血のにじんだティッシュがあるのに気づき、驚きながら手に取ろうとするが。唐玄はあわててティッシュを先に取り、引き出しに隠す。
吹美果 「お父さん、何それ!? 怪我でもしたの? ‥血だよね、それ? 」
唐玄 「ああ、‥ちょっと鼻血が出てね。」
吹美果 「‥あんまり聞かないよ。お父さんの歳で鼻血って。悪い病気とかじゃないよね? 」
唐玄 「大丈夫大丈夫。」
 唐玄はごまかすように、リンゴを取り、一口つまむと、書斎を出る。
 吹美果は机の上のナイフを見てぎょっとする、手に取る。

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