なぜ「なぜホロコーストで犠牲になったユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか⑥完

7.では、どのような問いを探究しなければならないのか?

 だいぶ長い論考になってしまったので、改めて本稿が目指していたところを確認しよう。筆者は最初に岡真理による、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うのは偽善なのではないか、との提言を取りあげた。該当箇所を引用しなおそう。

 そうであるなら、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」という問いもまた、偽善的であるだろう。ホロコーストのような暴力の被害者なら、それが倫理的誤りであることを己が体験によって熟知しているはずであり、そうである以上、同じような暴力を他者に対して振るったりはしないはずだという考えが、この問いの前提にある。自らが被害者であるにもかかわらず、そのような暴力を他者にふるう者たちは歴史から――自らが被った暴力的体験から――何も学んでいないように見える。しかし、歴史から何も学んでいないのは、実はこのような問いをナイーヴに投げかける者たちのほうであるのかもしれない。

『ガザに地下鉄が走る日』p57-58

 この主張に対して筆者は、「大筋正しいとは思うが、部分的には問題を抱えている」と異議を唱えたのだった。粗方シオニズムがたどった歴史を振りかえった今となっては、岡の文章がどのような問題を抱えているかは明らかだろう。
 引用では「自らが被害者であるにもかかわらず、そのような暴力は他者にふるう者たちは歴史から――自ら被った暴力的体験から――何も学んでいないように見える」と述べられている。ここではナチスによる迫害を体験した人々が、やがてパレスチナ人に同様の暴力をふるったかのように前提されている。
 しかし、前回までの論述からもわかるとおり、これは的を外した前提だと言わざるを得ない。そもそもイスラエル建国の立役者となったシオニストの大半は強制収容所を経験したわけではないし、親世代が移住した後パレスチナで生まれた者も多い。それに加えて、彼らは第二次世界大戦中にヨーロッパ各地で起きていることを見過ごし、殺されていったユダヤ人やパレスチナへと逃れてきた難民に対してむしろ侮蔑的な視線さえ向けていた。つまり、彼らは同じ「ユダヤ人」と呼ばれる人々であろうと被害者でもなんでもなく、単なる傍観者だったのだ。
 もしもシオニストがイスラエル建国以前からヨーロッパに同化するユダヤ人に対して同情を寄せ、非力ながらもどうにかして反ユダヤ主義に抗しつつ迫害された人々を助けようと試みていたのならば、いくらか被害者と呼ぶに値したろうし、すくなくとも傍観者とのレッテルは貼れなかったろう。だが、現実にはシオニストの指導層はまともな対策を講じることなく、むしろナチスとの取引にさえ手を染めていた。こうした点で、ドイツ人に追放された人々と、パレスチナ人の追放を主導した人々を同一人物とはみなせないのである。

 
もっとも、こうした問題を抱えているからと言って、岡の根本的な主張が間違っているわけではない。修正を加えさえすれば、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うことは依然として偽善である。なぜか? 単にそれぞれの歴史的事件の登場人物が「ユダヤ人」と呼ばれているからという理由で、被害者だったはずの人間が加害者になってしまうのはなぜ? などと無神経な問いを投げかけている連中は、本来罪を負わせるべきでない人々に罪を着せているからだ。
 
卑俗なたとえ話で考えてみよう。たとえば、日本人が中国で大量殺人を犯してしまったとする。そのあと、中国人を親とするものの中国では暮らした経験のない者が、韓国で大量殺人を犯してしまったとしよう。この時、「被害に遭ったはずの中国人がなぜ?」という話になるだろうか? 中国で被害に遭った人々と、韓国で殺人を犯した人が同一人物ではないことは簡単にわかる。仮にこういった事件が実際に起きたとしても、まかりまちがっても「中国人がなぜ?」なんて問いを投げかける人はいないだろう。
 にもかかわらず、事件の登場人物が「ユダヤ人」となるとなぜかそういった問いが出てきてしまうのである。現実には、シオニストはナチスが政権を握る前からパレスチナで入植活動を進めていたのだし、ヨーロッパで暮らすユダヤ人の中にはシオニストに対して反発していた者も多い時点で、両者の間には連続性はないに等しいのだが。
 ひょっとすると、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜパレスチナ人を追放するのか?」といった問いを持ちこむ人々の中には、シオニズムに対する理解が不十分な者も混ざっているのではないか? だとするのならば、なおさら偽善の度合いは深くなる。シオニズムの問題を理解していないままイスラエルを非難しても、有効な批判は繰り出せない。主犯の存在に気づかないまま空疎な批判を投げかけているのならば、それこそ偽善と言わざるを得ない。
 念のために言うが、ここまでの論述からわかるようにシオニズムの歴史に複雑なところなどまったくない。歴史をたどるのに労力を要するだけで、シオニストの行動パターンは単純である。パレスチナ/イスラエル問題はしばしば「複雑」だと言われることが多いが、それは歴史に通じていない者が責任を回避するために使う逃げ口上にすぎない。
 我々はこれらの常套句をゴミ箱に投げ捨てたうえで、どうすればイスラエルに対抗できるかを真剣に考える段階に移るべきである。

 
ただ、一つだけ注意しておきたいことがある。筆者は決して、一度被害に遭った者は間違っても加害になど手を染めるはずがない、などと主張しているわけではない。この点については岡と意見を同じくしている。
 たとえば論考中でも見てきたように、第一次中東戦争には(半ば強制的だったものの)収容所の生存者が徴兵されていた。彼らはその過程で少なからぬパレスチナ人を殺害したろうし、パレスチナ人なき後の家屋を生存者が奪ったりもしていた。繰り返しになるが、その点においては彼らとて(首謀者であるシオニストに比べればいくらか小さなものとはいえ)罪を免れられるわけではない。
 同時に、収容所にいた時も彼らは完全なる被害者というわけではなかった。プリーモ・レーヴィは、人間には物事を敵/味方、善人/悪人、犠牲者/迫害者といった具合に単純化する傾向があるが、収容所の現実はそのような構図ではとらえられないと述べている。ユダヤ人の中には(強制的にせよ自発的にせよ)親衛隊に加担し、他のユダヤ人の殺害を手助けするものもいた。レーヴィはその最たる例として、「特別部隊(ゾンダーコマンドス)」と呼ばれる者たちを挙げている。

それに属していたものは、何か月か腹いっぱい食べられるというだけの特典しか持たなかったが(しかし何という代償を払ったものだろうか)、もちろんそれはうらやみを起こさせないためだった。このしかるべくあいまいな名称を持った部隊、「特別部隊」は、SSが焼却炉の管理を任せた囚人の一団を指して呼んだ名前であった。彼らはガス室に送られる運命の新参者たちに、混乱や動揺を起こさせないことを任務としていた(新参者たちはしばしば自分たちの運命をまったく知らなかった)。そしてガス室から死体を運び出し、歯から金歯を抜き取り、女性の髪を切り、服や靴やスーツケースの中身をより分け、分類する任務も持っていた。さらに死体を焼却炉に運び、焼却炉の運転の管理をし、灰を始末する仕事もしていた。アウシュヴィッツの特別部隊は、時期によって異なるのだが、七百人から千人の人員を抱えていた。

『溺れるものと救われるもの』p48

 あまつさえ、彼らは収容所生活に耐え切れず落伍していった者に対して憐みの目をむけるどころか、軽蔑さえしていた。とくに落伍者たちが何と呼ばれていたかは注目に値する。レーヴィがいたアウシュヴィッツ収容所では、「打ち負かされ」た者たちを指す際に「回教徒(Muselmann)」という呼称が用いられていたという。

ガス室行きの回教徒はみな同じ歴史を持っている。いや、もっと正確に言えば、歴史がないのだ。川が海にそそぐように、彼らは坂を下まで自然にころげ落ちる。収容所に入って来ると、生まれつき無能なためか、運が悪かったか、あるいは何かつまらない事故のためか、彼らは適応できる前に打ち負かされてしまう。〔……〕彼らこそが溺れたもの、回教徒(Muselmann)であり、収容所の中核だ。名もない、非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心のなかの聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心がからっぽすぎる。彼らを生者と呼ぶのはためらわれる。彼らの死を死と呼ぶのもためらわれる。死を理解するにはあまりに疲れきっていて、死を目の前にしても恐れることがないからだ。

プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』朝日選書p107

 この「回教徒(Muselmann)」という単語に、ムスリム(英Muslim、独Muslime、仏Musulman、伊Musulmano)の残響を聞き取るのはそう難しくはない。収容者たちがなぜMuselmannという単語を用いていたかについて、アガンベンは以下のように推測している。

 最も本当らしい説明は、ムスリムというアラビア語の単語を文字どおりの意味で参考にしたものである。その語は無条件に神の遺志に服従する者を意味する。また、それはイスラム教の宿命論と称されるものについての、中世よりヨーロッパ文化に広く流布していた伝説の発端ともなっている(その語〔Muselmann〕は、こうした軽蔑を込めた歪曲を受けたものとして、ヨーロッパ各国語、とりわけイタリア語のうちにはっきりと認められる)。

ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』月曜社p36

 アガンベンはこれに続けて、「ユダヤ人は――一種の残酷な自嘲とともに――自分たちがアウシュヴィッツでユダヤ人として死んでいくのではない」と悟っていたからこそ「回教徒(Muselmann)」という言葉は使われていたのだ、と述べているが、そうだとすればなおさらここには収容者によるムスリムへの差別意識を読み取らざるを得ないだろう。
 我々ユダヤ人は、困難にあってもムスリムのように「非人間」状態に落ち込むことはあり得ないし、唯々諾々と神(アラー)に服従するようにSSに降伏することもあり得ない。にもかかわらず、あの落ちこぼれどもは平然と「非人間」的なふるまいに及ぶし、「川が海にそそぐように」、石が「坂を下まで」「ころげ落ちる」ように死んでいく。「死を理解するにはあまりに疲れきっていて、死を目の前にしても恐れることがない」。だから彼らは「Muselmann」と呼ぶにふさわしい。ドイツ人から蔑まれている我々ユダヤ人以下の、ムスリムに近い存在として扱われるべきだ……そんな差別意識は、収容所という極限状態においてもなお残存していたのだ。
 つまり、被害者となったユダヤ人は、我々に比べて高潔な性格を持っていたわけではない。彼らとて加害者にもなりうるし、被害者にもなりうる、我々と特に変わりない一般的な人間だった。
 我々は被害者に接する時、ついつい「理想的な被害者」の幻影を重ね合わせてしまうものだ。被害者は弱弱しくて、心優しき性格の持ち主で、にもかかわらず運悪く加害者の暴力の餌食になってしまった可哀想な人なのだ、と言った具合に。そういった現実に基づかない同情を寄せるあまり、加害者になった人は被害者になるはずなんてない、などといった偏見をもって接すれば、それこそ岡の言うような「偽善」になってしまうだろう。

 だが、一方で希望がないわけではない。イギリスでイスラエルに対する抗議運動を行っているハイム・ブレシートという人物がいる。彼の両親はアウシュヴィッツの生存者だった。

「父と母は同じ町のゲットーに住み、お互いの家族を知っていて、同じ日にアウシュビッツに連れて行かれました。アウシュビッツでは男女別々でしたが、2人は収容所にいたときに一度だけ会ったのです。
 フェンスのそばに父が立っていたとき、仕事から戻ってきて行進している女性たちの中に母の姿を見つけました。そして、持っていた小さな一切れのパンを母に投げたそうです。
 母は父がパンを投げてくれたことを生涯、忘れないと言っていました」

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2024/01/29/37092.html

 ブレシートの両親は収容所が解放されると、難民キャンプのなかで息子であるハイムを出産する。そして建国とともにイスラエルへと渡るが、彼らもまた他の生存者同様に入植者からは冷たく扱われていた。さらに、彼らの暮らしていた家は、パレスチナ人を追い出した結果得たものだった。

「私が5歳か6歳の頃から『ここは私たちの家じゃない。あなたが赤ん坊の時に追い出されたパレスチナ人の家なの。いつか彼らは戻ってくるから、私たちは彼らにこの場所を返すのよ』と母は言っていました。
 そして彼らが残していった荷物を全部まとめて、きれいに保管していました。
 私はイタリアで生まれましたが、自分が住んでいたローマの家を覚えておらず、イスラエルの家が私が知っていた唯一の家だったので、非常にショックを受けたのを覚えています。
 母の言っていることが理解できず、自分の家がなくなってしまうのではないかと心配していました」

 やがてブレシートが10歳になると、元の持ち主であるアラブ人が家を訪れたという。

「彼らに家の中を見てもらった後、母が『あなたたちが戻ってきた時のために全部取っておきました。荷物は全部ここにあります』と言って保管していた荷物を見せると、彼らは泣き始めました。
 母親たちが泣いていたので、私と妹、3人のパレスチナ人の子どもたちもみんな泣いてしまいました。
 年配の女性が私の母に『あなたはとても特別な女性です。私たちのものを守ってくれて、とても感動しています』と言いました。
 私が10歳だったこの日は、おそらく私の人生で最も重要な日でした。
 なぜなら、『この人たちは敵ではない、私や妹や父を殺したいわけではない』とわかったからです。
 私たちイスラエル人が、この2人の女性と3人の子どもたちにしたこと、それこそがひどいことだということを理解したのです」
 このとき、パレスチナ人の親子はガザ地区から数時間だけ出る許可がおりて、自分たちの家に戻ってきていました。

 その日、一緒に食卓を囲んだ親子は「また戻ってくる」と言ってガザ地区に戻りました。しかし、再び家を訪ねてくることはありませんでした。

 ブレシートの父親はイスラエルの徴兵を拒否しつづけ、拘束されたこともあるという。ブレシート自身は通信兵として入隊したことはあるが、やがて自らが殺人を犯しうる可能性の重大性に耐えきれず、イギリスへと渡った。そして現在はJewish Network for Palestineを創設し、積極的にデモを行っている。

 さきほど筆者は、被害者が加害者になる可能性も十分にあることを確認した。だが一方で、ブレシートが話すエピソードは、被害者が自らの体験をもとにしながら、他者に優しくなれる可能性だって同じくらいにあることを示している。このような話を聞くだけでも、我々はニヒリスティックに構えることなく、むしろ希望をもって議論を進めることだってできると勇気を与えられる。
 ただ、残念なことにこの記事ではブレシートやその両親が、どうしてアラブ人に対して良心をもって振舞えるようになったのかが明らかになっていない。また、ブレシートの父親は収容所にいた時、後に妻となる女性にフェンス越しにパンを投げたというが、彼はどのようにして自身が窮地にあろうと他者を助けられるような性格を育んだのだろうか? もしかしたらこれは結局、個人の生来の性格にもとづく行動なのだろうか? それとも、たとえば教育次第では誰でもこういった行動ができるようになるのだろうか?
 ここでこそ、我々が本当に問うべき問いが明らかになる。筆者は、本稿で「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うことを批判してきた。そのような問いを投げかける人々は、罪を負わせるべき対象を見誤っている上に、被害者が加害者になるはずなんてない、との偏見でもって物事を見ているからこそ二重の意味で間違っている。そうした間違いのもとにパレスチナ/イスラエル情勢を見ていると、まずはなにより本来責任を負うべき主体の存在がぼやけてしまう。
 パレスチナ人を追放し、虐殺した主犯はシオニストであって、大量虐殺から逃れた生存者ではない。生存者ではなくシオニストを批判するためには、どのような問いをこそ投げかけるべきなのか? これについてはやはり、本稿の冒頭で引いたアガンベンが役に立つだろう。

したがって、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、という偽善的問いではない。それより真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほどに(事実、それほどに一切は本当に可能になっていたのだ)自らの権利と特権を奪われることが可能だったのは、どのような法的手続きおよび政治的装置を手段としてのことだったのか、これを注意深く探究することであろう。

「収容所とは何か?」p48

 「残酷な犯罪」を人間心理の観点から見るのではなく、犯罪を犯罪でなくする「法的手続きおよび政治的装置」の観点から見つめる――そうすれば今日、国際法でも国内法でも裁かれないままにパレスチナ人を虐殺しつづけるイスラエルに対する有効な批判を生み出せるだろう。
 それと同時に、我々は今日の状況を覆した先に訪れる未来についても考えなくてはならない。パレスチナでは現在進行形で被害者が生まれつづけている。彼らは絶対に救われなければいけないが、一方で、救われた者たちが次なる加害者になる可能性はゼロではない。被害者が加害者になるはずなんてない、という偏見を持ったまま対処してしまうと、我々は次なる悲劇を呼び寄せてしまいかねないだろう。そうではなく、被害者も加害者になりうることを認めたうえで、どのようにすればそれを防げるのか、といった問いもまた我々は探究するべきなのである。


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