見出し画像

日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通することとは?(鎌倉・南北朝・室町時代篇)

天皇の歴史は大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けられ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代に分類されます。すでに古代までは取り上げているため、下記のリンクよりお読みいただけます。

ここでは「中世」の天皇を取り上げ、どのような人物がいて特に重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。


中世の天皇

日本の歴史における中世は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代に分けられます。

鎌倉時代の天皇

「鎌倉時代は、建久3(1192)年に鎌倉幕府が成立し、元弘3・正慶2(1333)年にその幕府が滅亡するまでの時代です。鎌倉時代の天皇としては、後鳥羽天皇から後醍醐天皇までが含まれます。

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇は、高倉天皇と殖子の第四皇子で、尊成という名です。寿永2(1183)年、源義仲の上洛に伴い、平家は安徳天皇を擁して、三種の神器、そして守貞親王とともに西国へと移動しました。

鳥羽天皇の嗣立以来、践祚儀の主宰は治天の君が行っていました。そのため、京都に留まっていた後白河法皇は、尊成親王を立て、三種の神器不在の中、法皇による伝国詔宣をもって践祚しました。これにより、東の京都には後鳥羽天皇、西の福原には安徳天皇と東西に天皇が並ぶいわば二所朝廷となります。しかし、寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水し、平家が滅亡したため、二所朝廷は解消されました。

建久3(1192)年に後白河法皇が崩御すると、天皇親政が始まりますが、建久9(1198)年には4歳の為仁親王に譲位し、上皇となって院政を開始します。後鳥羽上皇の院政は、土御門、順徳、仲恭の三代にわたり、23年間続きました。

鎌倉幕府成立後、源氏の三代は朝廷との関係を協調的に保っていましたが、幕府側の執権北条氏が実権を掌握すると、次第に朝廷との確執が生じました。後鳥羽上皇も、討幕計画を進め、承久3(1221)年5月に執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵します。

北条義時は、主上御謀反と称して、後鳥羽上皇の討幕行為は民を無視したものと考えていました。幕府側は、北条政子が御家人の結束を呼びかけ、兵を動員します。結果として、朝廷側の兵力と士気に勝り、わずか1ヶ月程で勝敗が決しました。その後、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡へと流されます。践祚したばかりの壊成王(九条廃帝)は廃位させられ、後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王(守貞親王)が治天の君の後高倉院となり、その子である後堀河天皇を新天皇として即位しました。

後高倉院

後高倉院は、高倉天皇と殖子の第二皇子で、後鳥羽上皇とは同母弟であり、守貞という名です。守貞親王は、延暦2(1212)年に出家し、行助(ぎょうじょ)入道親王となりました。出家した理由としては、皇位が後鳥羽皇統に移り、その子が天皇となったため、自身が天皇になる可能性がなくなったとされています。

しかし、承久の乱後、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたため、次の天皇に即位させるためには治天の君が必要となりました。この時代、次の天皇を即位させるには治天の君による伝国詔宣が必要だったため、父親である守貞親王に太上天皇の尊号を授け、後高倉院の院号が贈られて治天の君となりました。後高倉院は、天皇にならずに太上天皇になった不登極帝の初例です。

その後、幕府は後鳥羽皇統を否定し、後堀川天皇を即位させました。

亀山天皇

亀山天皇は、後嵯峨天皇と中宮西園寺姞子(きつし)の第三皇子で、恒仁(つねひと)という名です。後嵯峨天皇は、第二皇子である後深草天皇に退位を迫り、亀山天皇に践祚させました。しかし、後継者を指名することなく崩御したため、兄の後深草系皇統を持明院統(のちの北朝)として、弟の亀山系皇統を大覚寺統(のちの南朝)となり、2つの朝廷勢力が並び立つ両統迭立となりました。

文永5(1268)年に、高麗の使者が元のクビライ・ハンの国書を携えて大宰府に到着しました。その国書は京都の朝廷に送られましたが、幕府に委ねるために鎌倉に送られます。これは朝廷が外交大権を放棄する先例となり、その後、江戸時代まで幕府が外交することになります。

幕府は蒙古襲来に備え、大宰府の守りを強化しました。また、朝廷も諸国の寺社に異国降伏(ごうぶく)の祈祷を命じます。亀山上皇が治天の君として院政を行っている間に、文永と弘安の二度の元寇に遭遇しました。国難を乗り越えるために、亀山上皇は伊勢神宮へ「身を以て国難に代える祈願」に努めました。

また、文永11(1274)年の蒙古襲来で炎上した筥崎宮社殿の再興に際して、亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めています。文永の役と弘安の役で勝利を収めたのは、鎌倉幕府第八代執権の北条時宗でした。北条時宗はわずか18歳で執権に就任し、文永11(1274)年10月の文永の役は神風によって元軍を退け、弘安4(1281)年5月の弘安の役にでは実際に撃退しました。その後、再び神風によって元軍が撤退しました。

後醍醐天皇

後醍醐天皇は、後宇多天皇と典侍忠子(ちゅうし)の第二皇子で、尊治という名です。後醍醐天皇は、自らの諡号を「後醍醐」と定めた唯一の天皇で、延喜・天暦の治として有名な醍醐天皇や村上天皇の時代を念頭に置き、理想の政治を実現するために親政を行いました。

天皇親政を実現するためには、鎌倉幕府の存在が障害となるため、討幕の志を持つ者達を集めて討幕運動を行います。三度の討幕運動の末、鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐天皇は京都で朝廷政治の復活を果たしました。

後醍醐天皇が建武の新政を開始すると、公家や寺社の所領の安堵や、討幕の論功行賞を行いましたが、「朕の新儀は未来の先例たるべし」として先例や慣行を無視してしまいます。また、討幕の恩賞に対する不満や諸政策の矛盾から混乱が生じ、遂には反建武政権運動へと繋がりました。後醍醐天皇は窮地に立たされ、吉野に移って南朝を樹立します。その後、第七皇子である義良(のりよし)親王に譲位し、崩御しました。

南北朝時代の天皇

南北朝時代は、元弘3・正慶2(1333)年の鎌倉幕府が滅亡から、元中9・明徳3(1392)年の南北朝合一までの時代です。南北朝時代の天皇として、光厳天皇から後小松天皇までが含まれます。

光厳天皇

光厳天皇は、後伏見天皇と女御西園寺寧子の第一皇子で、量仁(かずひと)という名です。光厳天皇は、鎌倉幕府の推戴により即位しました。しかし、後醍醐天皇の討幕により、後伏見天皇とともに近江で捕らえられ、後醍醐天皇の詔によって廃位されました。

後醍醐天皇による建武新政の失敗後、足利尊氏が叛旗を翻し、足利尊氏の奏請により光厳上皇の弟の豊仁(ゆたひと)親王が皇位につけられ、光厳上皇による院政が開始されます。

足利尊氏は、建武3(1336)年11月7日建武式目を制定し、建武5(1338)年8月11日に征夷大将軍に宣下されて室町幕府を成立させました。同時期に後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したことで、持明院統の光明天皇と大覚寺統の後醍醐天皇の両統が並立する南北朝分立時代に突入します。

後光厳天皇

後光厳天皇は、光厳天皇と典侍秀子の第二皇子で、弥仁(いやひと)という名です。後光厳天皇が即位する前の正平7(1352)年に観応の擾乱が起こりました。

観応の擾乱は足利政権内の内紛であり、その中で治天の君である光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、そして皇太子直仁親王が南朝側に拉致される事件が発生しました。さらに、後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたことで、北朝は治天の君、天皇、皇太子、神器の不在という事態に陥りました。

幕府は、後伏見上皇の女御である広義門院(西園寺寧子)を治天の君として、光厳上皇の末子である弥仁(いやひと)親王を擁立する案を出しました。後白河法皇の先例に倣い、天皇の践祚には治天の君による譲国の儀が必要です。譲国の儀では、治天の君による伝国詔宣によって天皇が践祚します。幕府にとっては、天皇がいなければ武家の棟梁を征夷大将軍に宣下できなくなるため、必要な措置でした。先例のない治天の君を登場させ、神鏡を納めた空箱を神器に見立てて践祚を行いました。

後光厳天皇の践祚により、北朝と幕府が復興しました。また、応安元(1368)年には足利義満が征夷大将軍に任じられ、応安4(1371)年に緒仁(おひと)親王に譲位し、院政を開始しましたが、間もなく崩御してしまいました。

後円融天皇

後円融天皇は、後光厳天皇と典侍仲子(ちゅうし)の第二皇子で、緒仁(おひと)という名です。後円融天皇の治世には、足利義満が17歳から49歳までの間に、先例に准じて一つ一つ先例破りを積み重ね、天皇の権威に肉薄しました。そのため、精神的に追い込まれ、宮中で傷害事件を起こしたり、自殺を図ったりしました。

永徳2(1382)年には皇子の幹仁(もとひと)親王に譲位し、実質も形式もない院政を開始しましたが、足利義満に蔑ろにされ、明徳4(1393)年に失意のまま崩御しました。後円融天皇を追い込んだように見える足利義満は、応永11(1404)年頃から自身に太上天皇の尊号が贈られるよう朝廷に働きかけましたが、実際には贈られることはありませんでした。応永15(1408)年に足利義満は次男の足利義嗣を親王に准じた元服を行わせましたが、その2日後に突然の病に倒れました。死後、朝廷から「太上天皇」の尊号が贈られましたが、足利義持や管領斯波義将などが先例がないとして辞退し、尊号宣下自体がなかったものとされます。

後円融天皇の治世は、天皇の歴史の中でも最も天皇の権威が失墜した時期といえるでしょう。

後小松天皇

後小松天皇は、後円融天皇と内大臣三条公忠(きんただ)の娘の厳子(いずこ)の第一皇子で、幹仁(もとひと)という名です。明徳3(1392)年に、南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取り、南北朝合一が実現しました。翌年に後円融天皇が崩御した後、足利義満はさらに天皇の権威に肉薄し、治天の君に准じた権勢を振るったため、後小松天皇はほぼ何もできない状態でした。

応永19(1412)年には、皇子の実仁(みひと)親王に譲位し、院政を開始します。後小松天皇の院政は、称光天皇、後花園天皇の治世まで続きました。

室町・戦国時代の天皇

室町時代は、延元3・建武5(1338)年の室町幕府の成立から、元亀4(1573)年の足利義昭が織田信長に京都から追放されるまでの時代です。南北朝時代と重なる部分を除いて、室町・戦国時代の天皇の範囲を称光天皇から後奈良天皇の時代としています。

後花園天皇

後花園天皇は、伏見宮貞成親王と庭田経有の娘である庭田幸子(敷政門院)の第一王子で、彦仁(ひこひと)という名です。もし足利義満の時代が天皇や皇室の権威が最も失墜した時期とすれば、後花園天皇の治世は天皇や皇室の権威が復活した時期といえます。

後花園天皇の治世では、永享10(1438)年の永享の乱以降、治罰の綸旨を発給するようになります。治罰の綸旨とは、征伐の綸旨とも呼ばれ、いわゆる朝敵に対してその追討を命じ、天皇の秘書官である職事や弁官と呼ばれる公卿が天皇の命を奉じて発行する文書です。幕末の鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」は、天皇から治罰の綸旨が下された証となります。

永享10(1438)年の永享の乱以降、明応10(1501)年まで、治罰の綸旨の発給が増加しました。治罰の綸旨の発給によって天皇の権威が高められた結果、徐々に天皇や皇室の権威が復活したといえるでしょう。

後土御門天皇

後土御門天皇は、後花園天皇と藤原孝長の娘の信子の第一皇子で、成仁(ふさひと)という名です。後土御門天皇の治世において応仁の乱が始まります。応仁の乱は中央から地方へと拡散し、長期化したため、京都が荒廃し、皇室や公家の所領が剥奪され、朝廷財政が逼迫しました。そのため、多くの朝廷の諸行事が中止されました。

後土御門天皇の在位期間は36年間であり、比較的長い在位でした。その理由は朝廷財政が枯渇していたため、譲位が難しかったためです。そして明応9(1500)年9月に崩御しますが、遺骸は43日間も置かれ、葬儀も十分に行われませんでした。

後奈良天皇

後奈良天皇は、後柏原天皇と女院藤子の第二皇子で、知仁(ともひと)という名です。後奈良天皇が即位から10年後に即位礼を挙げ、これは戦国大名の寄進によって実現しました。しかし、大嘗会は挙げられず、歴代天皇では崇光天皇、後柏原天皇に次いで3人目となります。

後奈良天皇は、戦国の荒廃した時代であっても、自分にできることを実践した人物です。後奈良天皇は慈悲深く、天文9(1540)年6月には疾病の終息を祈願し、自ら『般若心経』を写経して、大覚寺や醍醐寺をはじめ、24の一宮に納めました。『般若心経』の奥書には、自らの徳が不足していることで疫病から命を救えなかったこと、そして『般若心経』がせめて疾病の薬になってくれればと願っている旨が記されています。

読んでいる方へのお願い

この内容が役に立ったという方は、「♡(スキ)」や「フォロー」をお願いします。「X」「facebook」「LINE」でシェアいただけるとさらに嬉しいです。

また日考塾Mediaでは、サポートをお受けしています。活動を継続させていくために、どうかお願い申し上げます。

日考塾Sapientiaでは、読んでいただいた方々に良質な記事をお届けするために日々励んでおります。しかし、良質な記事をお届けするためには、出ていくものも多いのが現状です。どうか、活動を継続させていくために、サポートををお願い申し上げます。