見出し画像

日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通することとは?(古墳・飛鳥時代篇)

天皇の歴史は大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けられ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代に分類されます。

ここでは「古代」のうち「古墳時代」と「飛鳥時代」の天皇について、どのような人物がいて特に重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。


古代の天皇

古墳時代の天皇

古墳時代は考古学上の時代区分であり、前方後円墳などの古墳が造られた時期です。古墳時代の天皇は応神天皇から崇峻天皇までとします。

仁徳天皇

仁徳天皇は、応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと)の第四皇子で、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)という名です。幼い頃から聡明で知られていました。仁徳天皇の皇后は磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘にあたる人物です。そのため皇族以外の身分から皇后になった初例ともされています。

仁徳天皇の特筆すべきことといえば、民の竈(かまど)伝説です。

天皇が高い山から国を見渡すと、どの家からも竈から煙が昇っていませんでした。天皇は民が炊事もできない程貧しい状況であることを知り、以後3年間、課税を取りやめます。それから3年後になって再び高い山から国を見渡すと、家から煙が昇っていくようになりました。しかし以後も課税を取りやめます。やがて宮中の屋根の破損や、雨漏りもあって、民が率先して税金を納めて宮中を立て直すようになりました。そのことから聖帝(ひじりのみかど)と称えられました。

また、仁徳天皇の治世は灌漑や治水などの公共事業を行っていて、その功績もあって、大阪府堺市の大山古墳、全長486メートルの日本一大きい前方後円墳が造られました。大山古墳は仁徳天皇陵に比定されていますが、実際に確証があるわけではないため仁徳天皇陵と呼ばれていません。

雄略天皇

雄略天皇は、允恭天皇と忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の第五皇子で、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)という名です。すでに日本のどの時代にも登場する天皇とは?名称や呼び方などを解説においても取り上げています。

雄略天皇は現状において、稲荷山古墳出土鉄剣銘と江田船山古墳出土大刀銘から実在性が確認された天皇であり、すでに5世紀後半の大和朝廷の支配権が関東から九州中部地域にまで及んでいた可能性が想定されています。

日本書紀の雄略天皇の記述では、残酷な天皇として知られています。その所以は、即位前に眉輪王(まよわおう)の変と呼ばれる事件を原因としています。

允恭天皇の前の安康天皇が、叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が天皇に反抗しているという疑いから皇子を殺害してしまいます。それを知った大草香皇子の子である眉輪王が父の仇討ちのため安康天皇を暗殺します。その報告を聞いたのちの雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が眉輪王討伐に立ち上がらなかったことから、暗殺側の一味として切り殺してしまいました。

また、安康天皇の兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)のもとに確認しますが消極的な返事しかしませんでした。その後坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに当時の有力豪族の葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の屋敷に逃げ込みます。そして雄略天皇は兵を集めて葛城円の屋敷を包囲し、そこで葛城円の娘の韓媛(からひめ)と所領の「葛城の宅(いえ)、七区(ななところ)」(『古事記』では「五処(いつところ)の屯宅(みやけ)」を差出して許しを乞いますが、認められず焼き殺されてしまいました。

その後葛城系皇族も、さらなる復讐の芽を摘むため殺害され、それが間接的な原因となって、後に武烈天皇の代で仁徳天皇から続く皇統が断絶してしまいます。つまり、皇統断絶の間接的なきっかけを作ったのが雄略天皇でした。そのため、残虐な天皇として悪いイメージで日本書紀に記述されたのかもしれません。

継体天皇

継体天皇は、応神天皇の五世の孫であり、彦主人王(ひこうしのおおきみ)と垂仁天皇七世の孫の振媛(ふりひめ)の子で、男大迹尊(をほどのみこと)という名です。

武烈天皇に皇嗣がいなかったため、応神天皇の五世の孫である男大迹尊が招聘され、大連の大伴金村などの群臣の支持を受けて即位しました。これを傍系継承といいます。

天皇(武烈)既に崩(かむあが)りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王無かりき。故(かれ)、品太(ほむだの、応神)天皇の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、袁本杼(をほどの)命を近つ淡海(あふみ)より上りまさしめて、手白髪(たしらか)命に合はせて、天の下を授け奉りき。

継体天皇は傍系継承であるため、仁徳天皇以来の皇統とは離れ過ぎてしまいます。そこで武烈天皇の妹であり、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を后として迎え入れることで、女系を通じて仁徳皇統を受け継ぐことになりました。つまり、男系として見れば五親等離れるものの、女系としては二親等になり、仁徳天皇以来の皇統から見れば近くなります。

男系から見れば遠い系統も女系によって近くする先例の初例であり、その後の時代においても活用されました。

欽明天皇

欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女の皇子で、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という名です。継体皇統と女系を通じて仁徳皇統を繋いだ初めての天皇でもあります。その前の天皇である宣化天皇とその前の前の安閑天皇は、尾張氏の尾張目子媛(おわりのめのこひめ)を母親としており、手白香皇女を母親とする欽明天皇と比べると陵の規模にも差が出ています。そのため手白香皇女を母親とする欽明天皇が次代の後継者であることが示されており、その前の皇統を女系を通じて繋いでいるかいないかで区別されている事例といえるでしょう。

欽明天皇の治世に仏教が伝来します。欽明天皇が外来宗教である仏教を受け入れた後は、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏、中臣氏を中心に論争が起こりました。論争は抗争へと変わり、蘇我稲目と物部尾輿の対立から、子の蘇我馬子と物部守屋に持ち越されます。この抗争を丁未の乱(ていびのらん)といい、どちらかの宗教を消滅させるまで抗争するわけではなく、仏教を受け入れることで終息しました。

飛鳥時代の天皇

飛鳥時代は、広義に難波宮や飛鳥の地に宮が置かれた崇峻天皇5(592)年から平城京へ遷都する和銅3(710)年までの時代、狭義には推古天皇元(593)年から藤原京へ遷都する持統天皇8(694)年までとする2つがあります。飛鳥時代の天皇は推古天皇から文武天皇までとします。

推古女帝

推古女帝は、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の皇女で、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)という名です。額田部皇女は、先々代の天皇である敏達天皇の皇后でした。

推古女帝の前の天皇である崇峻天皇は、崇峻天皇5(592)年に蘇我馬子の部下によって暗殺されました。そこで蘇我馬子に請われて額田部皇女を女帝として即位させます。推古女帝は、神功皇后が大王代行として臨朝を行った先例に倣い、実際に崇峻天皇の殯や政務を取り仕切りました。大王代行として臨朝を行った先例は神功皇后や飯豊青皇女がいるものの、推古天皇は女帝として即位した初例です。そのため、女帝の先例となりました。

群臣(まえつぎみたち)、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)の皇后、額田部皇女に請(まお)して、践祚(あまつひつぎしら)しめむとす。

推古天皇が即位すると竹田皇子はすぐに薨去しました。その後、甥の厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子とし、蘇我馬子に反感を買われないようにバランスを取ったとされています。

聖徳太子

聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女の第二皇子で、厩戸皇子という名です。

推古天皇の時代、日本の歴史上初めての摂政となり、冠位十二階や十七条憲法、天皇記や国記の編纂などを行いました。

夏四月庚午朔巳卯、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子(ひつぎのみこ)と為す。仍て摂政を録し、万機を以て悉(ことごと)く委ねたまう

仲哀天皇の崩御後に、神功皇后が後の応神天皇を身籠っていました。そこで大王の代行者であると同時に摂政と日本書紀にあることから摂政の初見といわれます。しかし摂政よりも大王の代行者として臨朝であったことから、聖徳太子が摂政の初例となります。

十七条憲法とは、推古天皇12(604)年に聖徳太子が作成した十七条からなる法文書です。しかし憲法という名がついていますが、現在のような近代憲法典ではありません。

まず「憲法」の「憲」はノリといい、ノリは「宣」ともいいます。これは天皇が公に発する意思表明を意味し、それを「命(みこと)を宣(の)る」といい、文書化によって「詔(みことのり)」となりました。つまり「詔」は民の従うべき掟であり、「法」という意味です。

外交面においては、隋に渡した国書があります。推古15(607)年の第2回遣隋使において小野妹子が、隋の皇帝煬帝に宛てた国書を携えて派遣されます。

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや

国書の内容を見た煬帝は、天子という文言が入っていたことで激怒しました。煬帝から見れば天子は、中華皇帝だけを表わすものであり、周辺諸国の最高位は「王」でした。いわば周辺諸国の王に過ぎない国が、無礼にも天子という言葉を用いて対等関係であるかのようにしたためです。単に外交儀礼を知らない無知な国と捉えることが一般的かもしれません。その後、無礼な倭国に対して戦争を仕掛けられることもなく、国内で反乱が起きて隋は滅亡してしまいました。

つまり近代に成立した国際法で見れば、戦争を仕掛けられて「天子」であることを否定されたわけではないことから、日本が独立国としての体裁を保つことができたともいえるでしょう。

皇極女帝

皇極女帝は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)の皇女で、天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのみこと)という名です。また舒明天皇の皇后でした。

皇極女帝は、乙巳の変で蘇我入鹿が討たれ、蘇我蝦夷が自害した翌日に軽皇子(かるのみこ)に譲位しました。

庚戌、位を軽皇子(かるのみこ)に譲り、中大兄を立てて皇太子と為(し)たまう。

是の日に、号を豊財(とよたから)天皇に奉りて皇祖母尊と曰(まお)す。中大兄を以て皇太子と為たまう

そして、新天皇の孝徳天皇から、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の尊号を送られました。皇祖母尊は太上天皇の前身と捉えられます。乙巳の変によって、天皇の譲位と皇祖母尊の尊号という2つの先例が作られました。

孝徳天皇

孝徳天皇は、茅渟王(ちぬのおおきみ)と吉備姫王(きびひめのおおきみ)の皇子で、軽皇子という名です。皇極女帝の弟に当たります。

孝徳天皇は、乙巳の変後に皇極天皇から譲位を受けて即位しました。即位から数日後に大化の元号が使用されます。元号制定の初例です。

天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年と為す。

大化の改新の新体制として、大夫(まえつぎみ)の筆頭として朝廷の重鎮であった阿倍内麻呂(あべのうちまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわのまろ)を右大臣として、従来の大臣を左右に分けます。中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられ、天皇や皇太子の輔佐役になりました。隋や唐に留学した僧旻(そうみん)と高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)を国博士に任じて、中大兄皇子の政治顧問としています。

大化2(646)年には、改新の詔が出され、今までの政治体制が終焉し、新たに中国の律令を模範とした新しい政治体制が誕生しました。

天智天皇

天智天皇は、舒明天皇の第二皇子で皇極天皇が母であり、葛城という名があるものの、中大兄皇子として知られています。天智天皇の前の天皇は斉明天皇であり、孝徳天皇に譲位した皇極天皇が孝徳天皇の崩御後再び皇位に即きました。これを重祚といい、斉明天皇が初例です。

斉明天皇崩御後、天皇に即位することなく称制として政務を行い、その後即位しました。称制とは、天皇に即位せずに天皇としての政務を行うことです。

天智天皇の治世では、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗退し、朝鮮半島に関わることができなくなりました。その後、防衛線を対馬に置き、北九州の守りを固めました。また中臣鎌足が病に倒れた際には、その臨終の際に冠位の最上位である大織冠と藤原姓を与えます。

天智天皇の崩御後は、弟の大海人皇子と皇子の大友皇子による壬申の乱が起こり、勝利したのが弟の大海人皇子で、のちの天武天皇となりました。

壬申の乱は、それまで皇位継承が兄弟継承だったものから直系継承へ変えようとして起きた争いです。この兄弟継承から直系継承への転換は、天武天皇の勝利によって挫折することになりますが、以降その方針を受け継いでいく流れはできました。大宝律令の継嗣令には、「三位以上の継嗣については、みな嫡子(=嫡妻の長子)が相承すること。」と嫡子継承を原則として規定されています。

天武天皇

天武天皇は、舒明天皇の第二皇子で皇極天皇が母であり、大海人皇子という名です。天智天皇の皇子である大友皇子に勝利したことで即位し、その後天武天皇の皇統が称徳女帝まで続きました。

天武天皇は皇族を要職につける皇親政治の初例であり、律令制を導入しました。さらに藤原京の造営や、飛鳥浄御原令の制定、古事記と日本書紀の編纂も始まりました。そして「大王」から「天皇」を称号とする初例でもあります。

持統女帝

持統女帝は、天智天皇と遠智娘(おちのいらつめ)の皇女で、鸕野讚良(うののさらら)という名です。持統女帝は、15歳の軽皇子(かるのみこ)に譲位したため、太上天皇の尊号を称した初例となりました。軽皇子は文武天皇のことです。

譲位した天皇には皇極天皇がいますが、その時は皇祖母尊として、太上天皇とは別の扱いとされています。

文武天皇

文武天皇は、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子と阿陪皇女(あへのひめみこ)の第一皇子で、軽皇子という名です。文武天皇の治世において、大宝律令が完成しました。また、元号は大宝元年以降、現在の「令和」まで一度も途切れることなく続いています。

また、大宝律令において初めて「日本」の国号が定められ、遣唐使を派遣し、国号が「倭」から「日本」に変わったことを通告しました。しかし、どちらも「やまと」と読むため、手違いからか『旧唐書』において「倭国伝」と「日本伝」の2つが併記されることになります。

読んでいる方へのお願い

この内容が役に立ったという方は、「♡(スキ)」や「フォロー」をお願いします。「X」「facebook」「LINE」でシェアいただけるとさらに嬉しいです。

また日考塾Mediaでは、サポートをお受けしています。活動を継続させていくために、どうかお願い申し上げます。

日考塾Sapientiaでは、読んでいただいた方々に良質な記事をお届けするために日々励んでおります。しかし、良質な記事をお届けするためには、出ていくものも多いのが現状です。どうか、活動を継続させていくために、サポートををお願い申し上げます。