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【日本を知る】日本のどの時代にも登場する天皇とは?名称や呼び方などを解説

日本の歴史を振り返ると、どの時代にも天皇が存在しています。

昭和から平成、平成から令和へと元号が変わった際に、日本に天皇が存在していることを改めて認識させたれた瞬間だったと思います。

本記事では、日本の歴史や現代まで存在する天皇の基本となる部分をご紹介します。

天皇の基本的な5つ

天皇の名称や名などは、他国の君主と異なり独特な言い回しや意味があります。

天皇の名称はいつから

「天皇」という語が文献資料として登場するのは、7世紀半ば頃とされています。それ以前は定かではなく、今後の発掘調査の結果が待たれます。

2世紀から3世紀に存在した邪馬台国については、九州説や畿内説などの論争がありますが、未だ確定していません。また、邪馬台国の女王卑弥呼が日本書紀に登場する神功皇后と同一視されることや、政治を補佐する弟との二元政治が行われていたとする見方もありますが、確証はありません。そのことから邪馬台国や卑弥呼がいた頃に天皇が存在していたとされることがありますが、これらは確証がないため、別々に考えることが一般的です。

「天皇」の語が登場する前は、『宋書』倭国伝に天皇と考えられる記載があります。それは「倭の五王」であり、4世紀から5世紀にかけて宋の南朝の皇帝に対して、倭の統治者であることを認めてもらうために冊封を行っていました。冊封とは、冊立封爵のことで、中華王朝の皇帝が国内の貴族や功臣に「王」「公」「侯」などの爵位と封地を賜与する行為のことです。

『宋書』倭国伝に記載された倭の五王の一人「武」は、雄略天皇とされています。雄略天皇は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣銘」や熊本県玉名郡の江田船山から発掘された「江田船山古墳鉄剣銘」において「獲加多支鹵(わかたける)大王(おおきみ)」という名前が記述されており、『日本書紀』と『宋書』倭国伝の記述も含めて実在が証明される天皇です。

5世紀頃の時点では、「天皇」の語を使用しておらず「大王」として、地方豪族たちを支配下に置いていました。7世紀頃になると従来の「大王」から「天皇」と称するようになり、中央集権的な国家へ変わったと考えられています。

天皇の呼び方

「天皇」の語源は、現代では「てんのう」という呼び方が一般的で、他には「スメラミコト」や「スメロキ」などと呼ばれています。「てんのう」は、「天皇」を音読みした呼び方であり、「スメラミコト」や「スメロキ」は訓読みした呼び方です。

「スメラミコト」の呼称は、天皇個人を指す意味で使われ、「スメロキ」は、皇祖である神武天皇から続く皇統の意味として「スメラミコト」に対比させて使われていました。

中国の『史記』の秦始皇帝本紀に「古え天皇あり、地皇あり、秦皇あり」とあることから、天上世界の支配者としての意味や、道教において宇宙の最高神を天帝とする思想に基づくなどいくつかの説がありますが、日本がどの説を受け入れたのかは断定できません。『旧唐書』高宗本紀において「皇帝、天皇と称す」とあるため、「天皇」の呼称を君主の意味として使っていたことは明らかです。

天皇、皇帝、天子の区別

天皇は、律令体制の確立後、役割に応じた呼び方に変わります。その呼び方は、養老律令第十八「儀制令」の「天子条」にあります。律令は飛鳥時代から奈良時代に制定された成文法です。

  • 天皇は「詔書に称する所」とされ、主に詔書を発する国内向けの呼び方です。

  • 天子は「祭祀に称する所」とされ、宮中祭祀などの祭祀を行う際の呼び方です。

  • 皇帝は「華夷(かい)に称する所」とされ、「華夷」とは中華思想に基づき、「華」は自国、「夷」を他国を意味することから、国外向けの呼び方です。

明治時代に入る前までは、律令法が存在していたため3つの区別は残っていました。しかし明治に入り近代化する過程で、「天子」の呼び方がなくなり、国内向けの「天皇」と国外に向けた「皇帝」の2つが残ります。大正半ばから昭和初期にかけて国体明徴運動が起こったことで、国外向けの「皇帝」の区別をなくし、すべて「天皇」に統一されました。その影響は戦後にも引き継がれ、現在でも国内や国外問わず「天皇」の呼び方となっています。

天皇に苗字はない

一般の日本人には、名前の前に苗字があります。苗字というと、「鈴木」さんや「藤原」さんなどがありますが、天皇を始め皇族には、苗字がありません

現在の天皇の名は、「徳仁(なるひと)」天皇です。
次期天皇の皇嗣を「文仁(ふみひと)」親王といいます。

このように天皇や皇族には、名前のみで苗字がありません。その理由は、苗字が地方や職業などに由来しており、その苗字は君主が与えるためです。つまり、与える側である天皇に苗字がないということになります。

天皇の崩御後の名

天皇の崩御後に贈られる名を追号(ついごう)といいます。明治に一世一元の制が制定されてから、「明治」「大正」「昭和」と在位中の元号が追号されています。近代以前であれば、元号だけではなく在位中の住まいにちなむものや、先帝を追慕して「後」を冠した「加後号」があります。在位中の住まいにちなむ追号の例としては、二条天皇などの例があり、先帝を追慕して「後」を冠した例は、先帝が嵯峨天皇に対して後嵯峨天皇などです。

天皇の崩御後すぐに追号されるわけではなく、贈られるまでの間は「大行天皇」と称されます。大行天皇は「遠くに行かれた天皇」の意味です。崩御後しばらくしてから追号されます。

また追号の一種として「諡号(しごう)」があり、これは天皇の生前の事績を称える名のことです。諡号は、和風諡号と漢風諡号の2つがあり、大宝3(703)年の持統天皇の大葬に際して贈られた「大倭根子天之廣野日女尊」(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)が和風諡号であり、「持統」が漢風諡号となります。なお諡号に「後」を冠した例はありません。

昭和天皇などは、追号されたことがわかります。では現在の天皇を何と呼ぶかといえば・・・

今上天皇または徳仁天皇といいます。

勘違いしてしまいがちな呼び方が、現在の元号から「令和」天皇と呼称することです。その呼称は、今上天皇が崩御したのちに、贈られる名となるため間違いとなります。在位中の天皇は「今上天皇」と呼ぶことが多いです。

皇帝、エンペラー、王、キングとの違い

現在の天皇は、英語表記で「Emperor」とされており、世界で唯一の「皇帝」となります。では言葉どおりにエンペラーや皇帝なのかと言われるとはっきりとそうであるとも言えません。皇帝やエンペラーまたは王やキングは、その意味するところの定義によって変わってしまいます。

結論から言えば、天皇は、王やキングの意味を持った皇帝やエンペラーといえます。

まずはそれぞれの言葉の意味をご紹介します。

エンペラーの意味は多民族国家の長

ヨーロッパの皇帝は、エンペラーといいます。エンペラーの語源は、ラテン語のインペラトール(imperator)が由来であり、古代ローマの上級の役職者がもつ権限であるインペリウム(imperium)を行使するものや、遠征などの長い闘いの末勝利したものに栄誉の意味を込めて呼ばれます。

古代ローマは多民族国家であり、帝政になると皇帝がもつインペリウムがローマ全土に及んだことや、皇帝になるものは血統が重視されていません。そのためエンペラーは、血統によらない多民族の長を指すことになりました。

キングの意味は単一民族の長

ヨーロッパの王は、キングといいます。キングは、単一民族の長を表す言葉から来ており、血のつながりを前提としています。キングは、「King」という表記で、これは血縁というKinを語源とする言葉です。そのためキングは、血統による単一民族の長を指すことになりました。

皇帝の意味は中華秩序の支配者

中国において皇帝は1人であり、春秋戦国時代の秦国の王が支那(中国)を統一して、それまでの王を超えた中国全土の支配者の尊称になります。中国神話である「三皇五帝」にあやかり、また春秋戦国時代の征服した各地の王よりも上であるという意味を込めて、皇帝と称するようになりました。

中華秩序とは、皇帝が世界の中心であり、離れれば離れるほど化外の地といって、秩序のない非文明的な世界になっていくことです。中華の「華」は、文明という意味になります。化外の地には、異民族が居住しており、四夷(しい)といって異民族への別称として東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)と呼んでいました。

王の意味は地方の支配者

王は、中華秩序において皇帝の下の位となります。地方の領域を王が治めたり、周辺国の有力者を皇帝が王として冊封したりする際に用いられます。高句麗の王や朝鮮国王は、皇帝の冊封によって与えられた地位であり、日本では倭の五王時代が該当します。

また王の意味は、皇帝の冊封によって与えられた地位の他に別の意味があります。それは儒家思想における王者のことで、徳をもって治める者をいいます。

天皇は王やキングの意味をもった皇帝やエンペラー

天皇は、エンペラーとキングのどちらかといわれたら、日本の歴史上大和民族の長として始まり、現在では日本国民の同一民族の長となるためキングといえます。また中国においては、儒家思想における徳をもって民を治めるという意味から王になるでしょう。

しかしキングや王では弊害がありました。

天皇が「王」のままでは、中華秩序に従属する存在に過ぎませんでした。しかし、推古天皇が小野妹子を遣隋使として派遣した際、「東天皇、敬みて西皇帝に白す」との挨拶で、隋の皇帝と対等であることを示しました。この表現が意図的だったかどうかは確証がありません。推古天皇が中華秩序の外交儀礼を理解していなかった可能性もあります。それでも、隋が滅び唐に変わってもそのままの状態が続いたことから、日本が中華秩序からの独立を表明したと私は考えています。

近代に入っても同様で、ヨーロッパのエンペラーは、ハプスブルク家に代表されるような王族などが各国のエンペラーとして君臨することがありました。日本が「キング」のままであれば、血統の浅い人達よりも格下扱いされてしまうため、天皇をエンペラーと訳すようになります。

つまり、天皇は王やキングの意味をもっているものの、 対外的に対等の立場にするために皇帝やエンペラーと称するようになりました。

天皇と先例

近代以前において天皇を始めとする朝廷において、しばしば先例を重視して政治が行われてきました。

先例とは、過去に起きた事例のことをいい、その事例に規範としての重みをもたせたものです。ときに慣例などとも呼ばれます。ただし先例に固執して適切な対応を怠るようなことはしないため、柔軟性はありました。

単に古いものが良くて新しいものが悪いわけではありません。しかし、乗り越えられないような危機が訪れていないのにいたずらに新しいことをやることは悪とされます。これを「新儀非法」といいます。

また「新儀」は、乗り越えられないような危機が訪れたときに行うため不吉ともされています。つまり新しいことをやる必要があるのは、危機的状況のときのみで、危機的状況でなければ先例に基づいて行動します。

そして天皇は、歴代の天皇の事績を帝王学(皇帝や王が治世に必要な学問や技術を学ぶ学問)として学びます。天皇の周りには時の為政者や識者がいるため、起きている問題を相談することがありますが、その相談して出た意見が適切かどうかの判断は天皇自身で行わなければなりません。

起きている問題を解決するための判断は先例が規範です。先例にあるものであればすぐに対処できるでしょう。しかし、先例になければ、危機を乗り越えるために新儀もやむなく行う<ことになります。

先例と新儀は、天皇の歴史において、どのような危機に対して先例を活かし、また新儀が行われてきたかがわかります。

ドイツ第2帝国の宰相であるオットー・フォン・ビスマルクの格言に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」があります。新儀を不吉として先例を尊ぶ天皇や皇室は、ビスマルクの格言にある「歴史に学ぶ」ことと同じ意味といえるでしょう。天皇や皇室はビスマルクが登場するはるか昔から、先例を重視し危機を乗り越えてきました。

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