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日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通することとは?(神話・伝承篇)
天皇の歴史は大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けられ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代に分類されます。
ここでは「神話」「伝承」までの天皇について、どのような人物がいて特に重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。
日本神話と伝承上の天皇
日本神話
天皇は実在性を問わず、古事記や日本書紀の記述どおりであれば、天照大神が祖先神となります。古事記は日本最古の書物であり、日本書紀は最古の歴史書です。神話の内容の信憑性を重んじるならば、日本民族の核心や日本の国柄が体現されています。
天照大神は天皇の祖先神
天照大神は、伊邪那岐命が黄泉の国から帰って来た際に、神社の祓詞にも出てくる「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)」で禊を行った時に誕生した神です。
天照大神は日を「知ろしめす」神として、伊邪那岐命から高天原の統治を委任されます。「知ろしめす」とは、古語である「シラス」の尊敬語であり、人々の知らせを聞いて治めるという、統治の意味です。「知ろしめす」や「シラス」は、日本的統治を指す言葉として使われます。
天岩戸神話
天照大神は弟神である須佐之男命が高天原に赴いて暴虐を尽くし、耐えていました。しかし、機屋(はたや)で神に奉げる衣を織っていた時に、須佐之男命が機屋の屋根から皮を剥いだ血まみれの馬を落とし入れたため、驚いた天服織女(あまのはたおりひめ)は梭(ひ)が刺さって死んでしまいます。今まで怒らなかった天照大神も遂に怒り、天岩戸に籠ってしまいます。天岩戸に籠ったことで、高天原が暗くなり、地上である葦原の中つ国も暗くなり、あらゆる災いが起こりました。
天照大神不在の中、他の神々が天安河原(あまのやすかわら)に集まって話し合います。神々の話し合いの末、天照大神を迎えるための祭祀を行うことで結論が出ました。
祭祀を行うために、三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉を作成します。ちなみに三種の神器のうちの剣である天叢雲剣は、須佐之男命が八岐大蛇を退治したときに尻尾から出てきたものを天照大神に献上し、「鏡」「勾玉」そして「剣」を皇位の正統性を表すレガリアとして受け継いでいます。
その後、天岩戸の外では祭祀が行われ、天照大神が外の賑やかさが気になり天岩戸から出てきます。天照大神が出てくると、岩戸に戻らないように大きな岩で塞ぎました。天照大神が戻ったことで、高天原や葦原の中つ国に再び日が戻ります。そして、暴虐の限りを尽くした須佐之男命は、神々の話し合いにより、高天原から追放されました。
天照大神の皇孫・邇邇芸命
葦原の中つ国は出雲を中心に大国主神が支配していました。この「支配」のことを「ウシハク」といいます。ウシハクとは、ウシは主人、ハクは身に着けるという意味で、主人が身に着ける物や家畜を指すことから、支配の意味です。ウシハクはシラスの対義語として使われます。
大国主神による支配によって、葦原の中つ国が乱れていることがわかりました。そこで葦原の中つ国を平定するために、神々が遣わされ、その後大国主神によって国譲りがなされました。国譲りがなされたことで、天照大神は皇孫(すめみま)である邇邇芸命(ににぎのみこと)を始めとする神々が天降ります。天孫降臨する邇邇芸命に向けて天照大神より3つの神勅が出されます。
天壌無窮の神勅
天壌無窮の神勅では、葦原の中つ国の統治者が天照大神より続く皇孫を始めとする皇統が継承して統治することを表しています。
葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるへき地(くに)なり。宣(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当(まさ)に天壌(あまつち)と窮(きはま)り無けむ。
秋になると稲穂が良く育つ葦原の国は、私より続く皇孫が統治しなさい。天孫が継いでいく限り、この正しい系統が栄える限り、この天と地は永遠に行き詰ることはありません。
宝鏡奉斎の神勅
宝鏡奉斎の神勅は、天岩戸神話に登場した八咫鏡を天照大神だと思って祀ることを表しています。
吾が児(みこ)此の宝鏡(みたからのかがみ)を視(み)まさんこと、当(まさに)吾(われ)を視るかことくすへし。与(とも)に床(みゆか)を同くし殿(みあらか)を共(ひとつ)にし、以(もち)て斎鏡(いはひのかがみ)となすへし。
この鏡(天照大神が瓊瓊杵尊に渡した三種の神器の一つ、「八咫鏡」を指す)を私と思って大切に祀りなさい。またいつも同じ床、同じ屋根の下に必ず置いてしっかり祀りなさい。
斎庭稲穂の神勅
斎庭稲穂の神勅は、稲穂を育てて民を養いなさいと表しています。
吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、亦(また)吾が児(みこ)に御(まか)せまつるへし。
我が子(直系の代々の天皇)に高天原にある神々へ捧げるための神聖な稲穂を作る田んぼでできた穂を与えますので、これを地上で育て主食とさせ国民を養いなさい。
伝承上の天皇
天皇には、その実在性が確かでない天皇もいます。天皇の歴史を通して見た時に、古事記や日本書紀の記述をそのまま信じるのは難しいですが、すべてを虚構とすることもできません。そこで、神話でも歴史でもない時代の天皇を「伝承上の天皇」としています。
神武天皇
神武(じんむ)天皇は、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)の子で、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)という名です。
この時期、大和系と出雲系の豪族に別れており、神日本磐余彦尊の父親が大和系で、玉依姫の母親は出雲系となります。この二人の婚姻により神日本磐余彦尊が誕生しました。神日本磐余彦尊は、宮崎県から関西地方まで東征し、畝傍山の東南橿原の地で、始馭天下之天皇(はつくにしろしめすすめらみこと)として即位しました。
この即位日を神武天皇元年1月1日としており、これを新暦に換算すると2月11日となるため、現代では建国記念日となっています。
神武天皇が即位してからの天皇は、代替わりごとに新しい場所に都を造る歴代遷宮を行って元旦に天皇が即位する先例ができました。
綏靖天皇
綏靖(すいぜい)天皇は、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の第三皇子で、神沼河耳命(かむぬまかわみみのみこと)という名です。
腹違いの兄、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)に政事を任されており、神武天皇の服喪の期間に権力をほしいままにし、二人の弟を殺そうとします。しかし、神沼河耳命は兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、多芸志美美命を襲い、討伐しました。
討伐の際に兄の神八井耳命は多芸志美美命を前にして討つことができなかったため、皇位は弟に譲り、自らは弟を助けるため神祇を司ることになります。
吾は仇(あた)を殺すこと能わず。汝命(いましみこと)既に仇を得殺しらまいき。故、吾は兄なれども上(かみ、天皇)となるべからず。ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめせ。僕は汝命を扶(たす)けて、忌人(いわいびと、神祇を行う人)となりて仕えて奉らむ。
こうして、皇位と神祇が分けられ、しばらくの間、第二子が統治権を持ち、第一子が祭祀権を持つという先例が作られました。なお、綏靖天皇から開花天皇は実在性不確かであり、欠史八代とされ、後世の創作と見られています。
崇神天皇
崇神(すじん)天皇は、開化天皇と御間城姫(みまきひめ)の第二皇子で、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのみこと)という名です。
崇神天皇は、4名の皇族を各地域に派遣し、平定したという話があります。大彦命(おおひこのみこと)は北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道に、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を丹波に将軍(いくさのかみ)として派遣されました。これを四道将軍といいます。
九月丙戌朔甲午、大彦命を以ては北陸に遣し、武渟川別を東海に遣し、吉備津彦を西道に遣し、丹波道主命を丹波に遣したまう。因りて以て詔して曰く、若し教を受けざる者有らば、乃ち兵を挙げて之を伐て。既にして共に印綬を授いて将軍と為たまう。
印綬とは、天皇による任命の印のことで、天皇の命をもって各地域の将軍として軍事指揮権を委任された証を示すものです。出征する将軍に持たせる任命の印としての刀である「節刀」や、明治以降に置かれた名誉職である元帥への刀剣下賜も、任命の印としての意味を持ちます。
なお、崇神天皇はヤマト政権の実質的な創始者として御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)として、実在した可能性のある天皇とされていますが、確証はありません。また、応神天皇以降の皇統との繋がりも懐疑的で、「王朝交代説」も存在するため、詳細は不明です。
神功皇后
神功皇后は、開化天皇玄孫の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)と渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)の末裔である葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)の子で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という名です。仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母にあたる人物です。
日本書紀において神功皇后は、摂政または女帝として他の天皇に准じた扱いをされており、明治以前には女帝と見なされた時代もありました。
女帝については、扶桑略記に、女帝の始まりという表記や播磨国風土記と摂津国風土記にも「天皇」という表記が見られます。
神功天皇 十五代 治六十九年 王子一人即位 女帝始之
しかし、大正15(1926)年10月に神功皇后は天皇から外されました。
神功皇后は女帝というよりは、仲哀天皇が崩御した後、皇后として熊襲の討伐や三韓征伐を行った大王の代行者でした。三韓征伐は、応神天皇を身籠ったまま朝鮮半島に渡り、百済、新羅、高句麗を征服し、その後百済からの帰化人が流入しました。帰化人で有名な氏族には秦氏がいます。
天皇が崩御した後、次の天皇が決まる前に即位せずにそのまま政務を執り行うことを称制といい、後の中大兄皇子や鸕野讃良(うののさらら)皇后の例にも見られます。また、蘇我馬子が推古天皇を女帝にする際の先例は、神功皇后に則っています。
神功皇后を摂政元年としているのは、応神天皇を身籠っていることから摂政として政務を行ったと捉えることもできます。
冬十月癸亥朔甲子、群臣皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳辛巳、即ち摂政元年と為す。
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